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バーテンダーさん、ブル・ショットを。《後》
迎えた週末。
前日から意識をしすぎていた僕の目は、どれだけ時間が経とうとも、どれだけ夜が更けようとも冴えに冴えてしまい、結局睡眠時間は一時間もあったかどうか。
もうどうせ寝られないならと、白んだ空を眺めにベランダに出てみた。
もうすぐ梅雨、および夏だとはいえ、朝の空気はじめっとしたものとは無縁の澄み渡った空気。
大きく吸い込むと、肺に綺麗な空気が満たされて思いのほか早起きというのも悪くはないものなんだと感じる。
もう一度、目を閉じて深呼吸をすると、ハトの鳴き声と木々を撫でるそよ風が鼓膜を揺らす。
睡眠はとってないのに、どうしてか目覚めがいい。
もうちょっとこうしていようかな。
なんて思っていると、静かな朝の空気を僕の腹の虫も吸いたいと騒ぎ出した。
壁に掛かった時計は六時を指しており、朝ご飯を作るにはちょっと早いかもしれない。
でも、アルノさんももう少しで起きると思うし……
一応、何が作れるかを知るために冷蔵庫を開ける。
半分くらい残った牛乳、卵、バター、四枚切りの食パン。
完璧じゃないか。
この間のアルバイトの帰り、アルノさんが言っていた「フレンチトースト食べたい」。
材料、全部そろっているじゃないか。
フレンチトーストは、アルバイト先のメニューにもあったから多少の心得はある。
この時間から卵液に漬け始めれば、丁度いいだろう。
・・・
二時間に及ぶ仕込みが終わり、とうとう調理開始。
フライパンにバターを敷いて、弱火で温める。
バターが融けたところでパンを入れて、蓋を閉めて蒸し焼きに。
七分ほど待って蓋を開けると、甘く、香ばしい匂いが部屋中を漂う。
「いいにおい……」
この匂いを嗅ぎつけてか、目を擦りながらアルノさんがキッチンにやってきた。
「パジャマ、袖捲らないと顔洗う時濡れちゃいますよ」
「う……わかったぁ……」
まだ寝ぼけて呂律の回り切っていないアルノさんは、ちゃんと袖を捲ってから顔を冷水にさらす。
「あ、フレンチトーストじゃん」
「この間、アルノさんが食べたいって言ってたので。材料も揃ってましたし」
「ふふん、揃えておいたんだよね。○○くんなら気が付いたら作ってくれると思ってさ」
「嵌められたってことですか」
「そう言うこと。でも、美味しい朝ごはんのお礼はちゃんとするから安心してよ」
そう言うと、アルノさんは再びベッドの上に戻りスマートフォンをいじり始めた。
何やら楽しそうなアルノさん。
僕は、その姿を横目にフレンチトーストの焼き目を確認する。
「うん、そろそろかな」
丁寧にお皿に盛り付け、上から砂糖を振りかけて完成。
「できましたよ」
「おぉ!おいしそ~!」
いただきますと手を合わせてからいざ実食。
お店の味の再現……とはいかなかったけれど、
「おいしっ!やっぱ○○くんは料理上手だね!」
と言って、美味しそうに僕の作った料理を食べてくれるアルノさんがいるだけで充分だ。
「いやぁ、満足~」
「それはよかったです。片付け、しておきますね」
「ありがと。お言葉に甘えて、デートの準備させてもらうね」
デートという単語はやはり僕には見合わない報酬だ。
まだ、心臓が飛び跳ねてしまう。
それを隠すように、僕は手早くお皿を回収して、後片付けを始めた。
・・・
「さて、そろそろ出発しますか」
「どこに行くんですか?」
「まあまあ、お楽しみだよ。まずは駅ね」
しっかり戸締りもして、アルノさんの後ろを着いていく。
駅ってことは、電車か。
あんまり、乗ったこと無いかもな……
「ねえ、○○くん」
「はい」
僕の先を歩いていたアルノさんが振り返る。
なにか物申したそうな目で僕を見つめる。
「今日は、何の日だっけ?」
「えっと……デ、デート……です」
「だよね。じゃあ、私の隣歩いてよ」
「そんな、隣を歩くなんて……!」
「いいの、ほら!」
アルノさんが強引に僕の左手を握って隣へと引っ張る。
「今日の○○くんは、私の”彼氏”だと思って行動すること。隣を歩くのも当然のことだし、手をつなぐのも当然。私と○○くんが対等なのも当然だからね!これ、今日に限ったことじゃなくてもいいからね!」
子供に言い聞かせるようなアルノさんの言葉。
僕の手を握る力も徐々に強くなっている。
「わかりましたか!」
「はい!わかりました!」
「よろしい」
アルノさんはまた歩き出す。
繋がれた手は、すぐに解かれるんだろうなって思っていたけど、先ほどよりも強固に、指と指を絡めるような握り方に握りなおされる。
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駅前通りを通り過ぎて、駅構内へ。
通行人の視線がアルノさんに注がれているのをなんとなく感じ取りながら電車に乗り込んで端の席に並んで座る。
「どこに向かってるんですか?」
「まあまあ、いいじゃないの」
何度聞いてもアルノさんにはぐらかされてしまう。
これはもう、聞いても教えてくれないな。
「楽しみにしててよ」
アルノさんの言いつけ通り、期待に胸を膨らませながら電車に揺られること二十分。
来たことのない街と、吸ったことのない空気。
駅を出ると、親子やカップルが割合として増えてきた。
「お、見えてきたね」
アルノさんが指をさす先には、視線にいれないという方が難しいほどに激しい主張をしながら聳え立つ観覧車。
「今日のデートは遊園地に行きます」
「遊園地ですか……!」
「はじめて?」
「初めてです」
「じゃあ、目いっぱい楽しんじゃおう」
受付の料金表。
目に入った、カップル割引の文字。
なんとなく察してはいたけど、
「カップル割引、お願いできますか?」
「はい、かしこまりました!お気をつけて、お楽しみください!」
やっぱり使うんだ、カップル割引。
『今日の〇〇くんは、私の”彼氏”だと思って行動すること』
先ほどアルノさんに言われた言葉が僕の脳内で主張を強める。
「何から乗る?いきなりジェットコースターにしてみる?だって、観覧車は最後の方がいいもんね……」
見渡す限りのアトラクション。
さっきみた観覧車に加えて、メリーゴーランドやコーヒーカップ。
ジェットコースターにはいくつか種類があり、立て看板を見る限りお化け屋敷もあるらしい。
ルートを考えているアルノさんは、本当に楽しそうだ。
「迷っててもなんだし、ジェットコースターいきなり行っちゃおっか!いっちばん怖いやつ!」
意気揚々とそう言ったアルノさんの歩調に合わせて、僕もつないだ手に引っ張られるように歩き出す。
待ち時間は僕が思っていた休日の遊園地よりも短く三十分も無いくらい。
「○○くんは乗り物酔いとかする?」
「どうなんでしょう……。あまりそう言うのはないと自覚してますけど……」
「じゃあ、連れまわしても大丈夫そうだね」
アルノさんとの他愛無い会話をしていたら順番はすぐで、僕らは並んで、ジェットコースターの一番前に座った。
「足、宙ぶらりんですね……」
「だね……ちょっと怖くなってきたかも」
「僕もです……」
安全バーがしっかりと固定され、ジェットコースターがゆっくりと動き出す。
最初は緩やかな上り坂を登っていき、上がるにつれて眼前には綺麗な景色が広がり、風が涼しく感じられる。
「わあ、すごい景色だね」
頂上でジェットコースターは動きを止めて、乗客たちに嵐の前の静けさを予感させる。
「そろそろだね」
アルノさんが、安全バーをぎゅっと力強く握っているのを見て、僕も自然と体が硬直する。
静寂は突然に破られ、ジェットコースターは急降下し、風を切る音とともにものすごいスピードで駆け下りた。
「キャー!」
「うわぁぁあぁぁあぁぁ!」
カーブを曲がり、上下に揺れるたびに声を合わせて叫んだ。
叫び声を上げ、一旦落ち着くたび、僕は何て情けない声を出しているんだろうと少しだけ恥ずかしさも襲ってくる。
「あー!たのしー!」
ジェットコースターが終わる頃には、涼子の顔は赤くなり、息を切らしていたが、その表情には満足感が溢れていた。
いつもよりもハイになっているような気もした。
「次いこ~!」
次に連れられた先はお化け屋敷。
廃病院というコンセプトが非常にわかりやすい外観と、中から聞こえてくる悲鳴が非常に恐怖心をあおる。
「ここ、すっごい有名なんだよ」
「どうしてですか……?」
「そりゃ単純だよ。めっちゃ怖いんだって」
まだ中に入ってもいないのに、その情報だけで鳥肌が立つ。
「じゃ、入るよ」
お化け屋敷の入り口は薄暗く、なんのBGMも流れていないのが逆に怖い。
アルノさんも平気そうな顔をしていたけれど、握った手に力が籠るのが感じ取れ、怖いのはお互い様なんだとわかる。
進んでいくと、突然飛び出してくる骸骨、壁から幽霊のような白い影、四方八方から不気味な声が聞こえてくる。
息が本当に出来ているのかわからないほどの恐怖で埋め尽くされた暗闇の中、一筋の光が顔を覗かせる。
「出口だ……!」
「やっと……」
と、思ったのもつかの間、出口の手前の壁が揺れ、壁からお化けが飛び出してきた。
「うわぁ!」
「きゃあ!」
驚いた僕たちは、思わず抱き着く形で固まってしまう。
「あ」
「す、すみません……」
慌てて離れて、出口を出る。
眩しい光に網膜が刺激される。
「あ、あっつくない?」
「そうですね……!」
アルノさんの頬が赤いのは、多分夏が近いせいだ。
・・・
日も暮れはじめ、夕日が空をオレンジに染め上げる。
今日一日、遊園地のほとんどのアトラクションを堪能したのではないか。
ジェット―コースターに始まり、お化け屋敷、メリーゴーランド、コーヒーカップ。
入り口からは遠かったバイキングに、ゴーカートも乗った。
残りは、あと一つ。
「観覧車、乗ろっか」
国内でも有数の大きさを誇るらしい観覧車。
一周は約十七分間の空中散歩。
列に並んでいる人のほとんどがカップルで、たまに子供を連れた夫婦もいるかなというくらいなもの。
やがて僕たちの番が来て、スタッフに案内されて青のゴンドラに向かい合わせになって乗り込む。
僕らが乗り込んだのを確認して、スタッフが扉を閉める。
ゴンドラはゆっくりと地上を離れていき、夕焼けに染まった世界は昼間に見たものとはまた違った景色を僕らに見せていた。
「すごい景色……」
僕は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。
「時間がゆっくり流れてるみたい」
「僕は多分、この景色をずっと忘れません」
「今日一日の”彼氏”役、どうだった?」
「すごく、楽しかったです」
「ここ、頂上だね」
遠くに見える街はぽつぽつと明かりが点いて、まるで星空がもう一つあるみたい。
「あと半分か……」
「もう、終わっちゃいますね」
「今日は、○○くんは私の”彼氏”なんだもんね」
「そう、言われましたけど……」
「キス、してみる?」
視線を、景色からアルノさんに移す。
観覧車が閉め切られているせいか、息苦しい。
観覧車の窓に肩を預けて、外を見つめているアルノさんは、笑ってはいなかった。
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「き、キス……!?いきなりどうしたんですか……!」
密閉されて空間で、風もないものだから体温が下がらない。
「恋人は、観覧車でキスをするものなんだって。映画で、よく見るよ」
「それは映画の話で……!それに、僕らは別につきあってるわけでは…..」
「○○くんは好きな人いるの?」
「ほんとにどうしたんですか急に……!」
地面が近づいてくる。
もう、この時間も終わり。
「なーんて」
アルノさんの視線が僕にぶつかる。
「冗談だよ」
「アルノさん……!人が悪いです……」
「赤くなってる○○くん、かわいかったよ」
地面について、スタッフが扉を開けるとアルノさんはひょいとゴンドラから降りて、僕を手招きをする。
辺りは夜の暗がりになっていて、ライトアップされた観覧車はより一層目立つ。
「帰ろっか」
「……はい」
「夏になったら、夏祭り行こうよ」
「ぜひ、ご一緒させてください」
帰り道、再び結ばれた手。
本当に、アルノさんのあの言葉は冗談だったんだろうか。
僕の胸に残った熱い何かは、結局お風呂で洗い流すことも、眠ったら自然に消えているなんてことも無かった。
・・・
いつの間にやら梅雨も明けて、本格的な夏の暑さが世間を賑わす。
カフェ『Bull Shot』にもカキ氷が期間限定メニューとして追加されて、こちらもまた賑わいを見せている。
僕はというと、仕事にも慣れてきて、アルノさんが指導係として僕に着くということもなくなってきた。
そのため、前まではアルノさんと一緒に夜の時間帯からシフトに入ることが多かったのを、お昼の時間帯まで伸ばすことも可能になったのだ。
「いや~、○○クンが昼も入ってくれて助かるよ」
「こちらこそ、いつもご指導ありがとうございます」
「そんなかしこまんないでよ。今はお客さんもいないんだし」
「ありがとうございます」
店長の言う通り、夕方に差し掛かりお客さんの姿は人っ子一人おらず、先ほどまでの大盛況が嘘だったかのよう。
「で、つかぬことを聞くけどさ、アルノちゃんの従姉弟って嘘だよね」
「きゅ、急にどうしたんですか……!」
「だってさ、○○クンがアルノちゃんのことを見る目、完全に恋する男の子の目じゃん?それに~……って、そっちはまあいっか」
「………………!」
「あれ、ビンゴかな?」
恋……
胸を燻る熱い何か。
目を背けていたその名前を、いきなり眼前に叩きつけられた。
「恋……なんでしょうか」
「よし、オジサンが恋愛相談に乗ってやろう。そこ、座んな」
カウンターに座った僕に、店長はオレンジジュースをサービスして、隣の席に腰を下ろす。
「まあ、従姉弟じゃないんだろうな~ってのは最初っからわかってたんだよね。まあそこはアルノちゃんへの信頼とそんな細かいこと気にするとこじゃないからスルーしたけどさ。にしても、アルノちゃんのことが好きなのか~!どこが好きになったん?」
「アルノさんは……僕の恩人なんです。いつ死んでもおかしくなかった、このまま死んでしまおうかって思ってた僕に、生きていていいと、たまにはいいことだってあるんだよって教えてくれた人なんです。だから、きっと僕のこの気持ちは恋……なんですけど、僕なんかがアルノさんに恋をしていいものか、わからなくて」
「中々重い過去抱えてんだねぇ。あぁ、無理して話さなくていいからね」
店長は十秒くらいうーんと唸ると、再び口を開いた、
「恋をするのに、資格なんて最初っからいらないんだよ。誰かが誰かを好きになることなんて自由なもんなんだから。俺だって昔は学校の先生とかに恋したもんよ……って、俺の話はどうでもいいか。気を取り直して、一番大切なのは○○クン自身よ。○○クンはどうしたい?」
「僕は……」
「まあ、その答えを慌てて出す必要ないし、そんなもんでもない。ゆっくり、じっくり考えな」
そう言って、店長は席を立つとスタッフルームに入っていってしまった。
残されたのは僕一人。
グラスはすっかり汗をかいてしまっている。
そう言えば、前アルノさんと出かけた時もオレンジジュースを頼んでたっけ。
僕は一息に、残ったジュースを飲みほした。
・・・
吸い込む空気に肺が焼かれそうなほどの気温が続く七月後半。
明日はどうやら夏祭り。
以前遊園地に行った時の「夏祭り行こうよ」までは冗談ではなかったらしく、きっちりその日はアルバイトのシフトも入らないでアルノさんとのデート予定を入れてある。
「○○くんはさ、浴衣着るの?」
発端はアルノさんのその一言だった。
花火大会と言えば浴衣。
アルノさんは去年も浴衣を着て岡本さんと行ったらしい。
「僕はいいですよ」
「え~。じゃあ甚平とかは?浴衣よりは断然動きやすいと思うよ」
「甚平ですか……」
「それに、夏祭りに行くのが今回だけとは限らないし。八月になってもたくさんあるでしょ。一緒に着ていこうよ~」
「そうですね……。わかりました。甚平、着ます」
「やった。さっそく買いに行こ。準備して~」
そう言ったアルノさんに急かされて、僕は慌てて着替えを済ませる。
いつも通りの駅前通り。
その少し外れたところにあるお店。
「この間行ったお店じゃないんですね」
「うん、ここは浴衣とかの専門店なんだよね~。あ、甚平あったよ」
華やかな浴衣の並ぶお店の一角、甚平がずらっと並んだコーナー。
「私はやっぱりこれが似合うと思うな~」
アルノさんが指をさしたのは濃いグレーの、極々シンプルで、甚平と言えばと言われて思い浮かべる様なもの。
「わかりました。そしたら、それにします」
「即決だね」
アルノさんがこれがいいというんだから、僕はもちろんそれに従う。
アルノさんの選ぶものならはずれがない。
「すみません、ちょっとお手洗いに行ってもいいですか」
「じゃあ、袋私が持ってるよ」
甚平の入った袋をアルノさんに預けて、僕は走って一分も無いくらいのデパートに駆けこむ。
デパートの中は異常なほどに涼しく、外との気温の差に鳥肌が立つ。
「はやく戻らないとな……」
日陰とはいえ外は熱い。
そんな中、アルノさんを長々待たせるのは気が引ける。
僕はデパートを出て、また走り出そうと……
「お前、○○か?」
その声に悪寒が走る。
呼吸は浅くなり、体は鎖で縛られたように固まる。
「○○だよなぁ。顔、見せろや」
肩を思い切り掴まれて、無理やり後ろを向かされる。
僕の名を読んだ男。
それは紛れもなく、■だった。
「久しぶりじゃねぇかよ。家出をしたバカ息子」
「え~、この子が息子なの~?」
■の隣。
猫なで声の、派手な格好をした若い女。
■の新しい愛人だろうか。
「おお、せっかくよくしてやってたのに家出なんてしやがってよ。さっきも一回見かけたんだよなぁ。そん時はだれか女と歩いてたなぁ」
アルノさんといるところも見られていた。
冷汗が首筋を伝う。
「あの女、中々の美人だったな」
「私がいるのにそう言うこと言うんだ~」
「人は多い方がいいだろぉ?」
蛇に睨まれたカエルの様に、指先まで硬直してしまっている。
声も出ないし、足も動かない。
「おい、あの女、どこにいんだ?」
「……い、言うわけ、無いだろ……」
「そうかそうか。じゃあ、躾だな」
傍らにいた女が離れて、■が僕ににじり寄る。
しばらく忘れていたこの感覚。
僕にとっての日常だったはずのこの感覚。
衝撃と共に、脳が揺れる。
世界がゆがんで、僕は熱されたアスファルトの上に転がる。
「さっきは浴衣売ってる店に入ってったっけな。そこにまだいるんじゃねえか?」
「おぇ……!」
不気味な、下卑た笑いを浮かべて、■が倒れた僕の腹に一発蹴りを浴びさせる。
「まあ、あの女もいいように使ってやるから安心しろや」
■が僕から離れていく。
このままじゃ、アルノさんが危ない。
僕を救ってくれたアルノさんを、僕の事情で危険に巻き込むなんてこと、してはいけない。
「アル……ノさんには……手を出させない……」
「あ゛?」
ぐらつく視界、痛む頭。
それでも、自分のことなんてどうでもいいから、アルノさんには近づかせない。
僕は、よろよろと立ち上がり、■の服を掴んだ。
「まだ躾が足りねえかよぉ」
「あの人には、手を出すな……」
「うるせえよぉ!」
口の中が切れて血の味がする。
アスファルトに落ちた赤い雫は僕の鼻から垂れているらしい。
「親に!逆らうんじゃねえよ!」
洋服の首元を掴まれて、思い切り放り投げられる。
壁に打ち付けられた衝撃で、息が一瞬止まり、反動で後頭部もぶつかる。
「そのまま、死ぬか?お前だって死にたかねぇだろ」
もう、死んでしまいたい。
前までの僕はそう思いながら生きていた。
でも、今の僕は生きたい理由がある。
しかし、僕の命でアルノさんが安全に過ごせるのなら。
「死んでも、お前をあの人のところには行かせない……!」
「親に対する口の利き方がなってねぇなぁ」
もう意識なんてほとんど残ってない。
きっとちょっとでも力を抜いたらするりと抜け落ちるだろう。
「お前なんて……親でも、なんでもない……」
「そうだなぁ。こんなの、息子じゃねぇよなぁ。うっかり殺しても、文句言うなよなぁ!」
拳が振り上げられるが、力も入らない子の体では防御の体制を取ることすら不可能。
ごめんなさい、アルノさん。
今の内に、逃げてください。
「何やってるんだ!やめなさい!」
大きく響いた声。
■は取り押さえられ、僕の近くから引きはがされる。
誰かが、警察を呼んだのか。
誰かわからないけど、感謝しなくては。
これで、アルノさんの安全は守られる……はず……
「○○くん…..!」
温かい手が、僕を包む。
誰かが僕の名前を呼んでる。
だれだろう。
うっすらとあけため。
なみだをながす、アルノさんのすがた。
アルノさん、ごめんなさい。
僕の意識は、水底に沈んだ。
==========
「はい、おしまい」
「え~、もっと読んでよ~」
「ダメよ。もう夜も遅いんだから」
「はーい」
これは、夢だ。
幼いころの記憶。
父は中々家に帰ってこなかったけれど、いつも母が絵本を読んでくれた。
中々眠れない日は、頭を撫でて、子守唄を歌ってくれた。
風邪を引いて寝込んだ時は手を握っていてくれたっけ。
母さんの、あの温かい手が好きだった。
「明日は、星がきれいにみられるみたいだから、一緒に見ようね」
「うん……」
それなのに、僕が最後に握った母さんの手はひどく冷たかった。
母さんがこの世界からいなくなった日の朝。
目に涙を溜めながら学校に行く僕を見送っていたのを思い出す。
きっと、僕も気が付いていたんだ。
母さんは、自殺をするつもりだったんだって。
きっと、深く悩んだんだと思う。
それに僕を誘うことだって考えたのかもしれない。
それでも、母さんが僕を誘うことは無かった。
きっと、僕の未来を自分の手で断ち切ってしまうのが怖かったんだと思う。
だから、【守ってあげられなくてごめんね】なんて手紙を残したんだろう。
母さん、ありがとう。
母さんのおかげで、僕は初めて好きな人ができました。
母さんの様に温かい手で僕を包んでくれる、僕の正真正銘命の恩人です。
でも、母さんごめんなさい。
せっかく母さんが守ってくれた僕の未来はここまでかも知れません。
でも、僕は初めて、自分の行動に誇りを持てます。
最期に、僕は愛する人を守ることができたからです。
僕も、もうすぐそっちにいくからね。
『ダメよ。まだ、あなたにはやり残したこともあるんでしょ?』
『○○くん……』
誰かが僕の名前を呼んでいる。
そろそろ、朝か。
そろそろ、起きないとな……
==========
目を覚ますと、そこはアルノさんの家でも、僕が元々住んでいたところでもい、真っ白な天井と綺麗なベッド。
ここはどこだろう。
それに、右手の温かさは……
「○○くん……!」
僕の名前を呼ぶ声でさらに意識が覚醒する。
左腕に繋がれた点滴と、一定のリズムで鳴る心電計の音。
「目、覚ましたの……?」
窓の外は暗く、夜空には星が瞬く。
「アルノさん……」
僕の手を握っていたのは、ベッドの傍らの椅子に座っていたアルノさん。
体を起こそうとすると、あちこちが痛んで思うように動かない。
そんな僕の背中に手を回して、アルノさんが起き上がる補助をしてくれる。
「よかった……無事、だったんですね……」
「もう……!なにもよくないよ……!○○くん、丸一日目を覚まさなくて、死んじゃったんじゃないかって心配したんだから……!」
大粒の涙が頬を伝い、真っ赤になった目でアルノさんが僕の方を見つめる。
手にも、徐々に力が籠る。
「丸一日……」
ってことは、今日はもしかして。
「夏祭り、今日……ですよね。すみません、僕のせいで」
「ばか……!そんなの、○○くんが目を覚ましたことに比べたらどうでもいいの!」
「でも……」
すでに明るい病室がさらに明るく照らされて、遅れて窓が揺れるほどの轟音が届く。
「花火……ですね」
「花火だね」
「あ、電気消すね!」
アルノさんが席を立ち、病室の電気を消して戻ってくる。
暗くなった病室は、花火の光で色とりどりに照らされる。
「綺麗ですね」
「そうだね」
「……ごめんなさい、心配かけて」
「ほんとだよ。どれだけ心配したと思ってるの」
「あの時、取り押さえらえてた男は僕の父親なんです」
「……聞いたよ」
「あいつが、アルノさんに危害を加えようとしていて……。僕が、守らないとって」
「ありがとう」
窓の外の花火。
火薬のにおいは届かない。
「病室で見ることになっちゃいましたね」
「でも、夏祭りは今日だけじゃないって言ったでしょ」
「そうですね」
『○○クンはどうしたい?』
ふと、以前店長に言われた言葉を思い出した。
どうしたい。
僕は、どうしたい。
「アルノさん、一ついいですか」
「いいよ」
「今の僕は、訳あってアルノさんと同じ名字を名乗らさせていただいているじゃないですか」
「そうだね」
「僕はもっと、胸を張ってアルノさんの名字を名乗れるようになりたい。自信を持って、アルノさんの隣を歩けるようになりたいです」
「それは、どういう意味?」
「言葉通りの意味です。アルノさん、僕はアルノさんが好きです」
一瞬の沈黙があって、アルノさんが僕の目を手でふさぐ。
花火の音が鳴り響き、唇に、柔らかさと温もりが触れる。
「ア、アルノさん……!?」
「これが答え……だよ」
塞がれていた視界が回復し、頬を真っ赤に染めたアルノさんの顔が映る。
多分、それは写し鏡で、僕も同じくらい顔を真っ赤にしているはずだ。
「まだまだ、アルノさんにふさわしい男にはなれてないですね」
「それはゆっくりでいいんじゃないかな?」
花火が病室を色とりどりに染め上げていく。
次は目を塞がずに、僕らの唇が重なった。
………fin
あとがき
タイトルがバーテンダーとかブル・ショットとか言ってるのに作中にお酒が全然出てこないのではてなマークが浮かんでいる方もいるかと思いますのでヒントを置いておきます。
ブル・ショットはカクテルの一種で、カクテル言葉を調べていただければわかるかなと思います。
バーテンダーは……頑張って意味を読み解いてみてください!笑
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