見出し画像

私はきっと、その香りを思い出して、

「ねえ、たばこ」
「ああ、悪い。ベランダで吸うわ」

付き合って、二年になる彼。
何度注意しても部屋でたばこを吸おうとする。

「たばこって、どんな味なの?」
「うーん……なんだろうな……」

彼は、たばこを一度口から離して。

「大人の味、かな」

子どもみたいな笑顔を向けた。

そして、

「なにそれ」

と、困惑する私を一人部屋に残してベランダに出た。

ベランダの明かりに照らされて、夜の闇へと立ち上っていく白い煙を、私はただ眺めながら、飼育容器の中のヒョウモントカゲモドキに餌をやった。


彼は一つ上の先輩で、高校の頃から仲が良かった。

出会いは別に、普通……より悪め。

あれは確か、高校二年の春。

学校行事の一環として行われた奉仕活動。

各学年からランダムに振り分けられた班がいくつもあり、それでたまたま一緒になった。


「マジでだるくね?」
「それな、行事でやる奉仕活動で学校の評判なんて変わんないっての」

公園のあちこちから愚痴が聞こえてくる中、私は一人で班員を探していた。

お願いだから女子一人なんてやめて。

なんて、願いながら歩き回っていた。

「おーい、あと誰来てない?」
「二年生の先輩が来てないです!」

微かに声が聞こえた時点で察した。

女子一人だ……

このまま何事もなかったかのようにバックレてしまおうかとも考えた。

「あ、君、何班?」

しかし、声を掛けられてしまった時点でそんな考えは夢へと散った。

「あ、えっと……七班です」
「お、一緒じゃん。よろしく」

ラス一女子だったぞ!と班員のところに向かう姿を見て、私は思った。

多分、あの人苦手だ。

そんな予感は、見事に的中した。

「傘落ちてんじゃん。ゴミ袋入らなくね?」
「折っとけ折っとけ」
「あーい」

「ペットボトル、ラベル剥がした?」
「やべ、剥がしてねーわ」

「アルミ缶とスチール缶分けてくださいよ!」
「え、あれって分けるもんなん?」

一日、ごみ拾いに着いて回って特に何もしてない私が言うのも失礼な話なのかも知れないけど、この人は分別の意識が低すぎるんじゃないかと思った。

多分じゃなかった。

確実に、この人苦手だ。

疑念は確信に変わった。

だけど、好感度が-10くらいから始まった先輩との関係が少しだけ改善される出来事があった。


委員会の仕事。

人が全然来ない図書館の受付。

まさかの二人きり。

「ねえ、中西……さんって、あの時の奉仕活動同じ班だったよね」
「え、はい……そうです」

「よかった~!違ってたらどうしようかと思ったんだよね」
「あの、一応図書館なので少し静かに……」

「あ、本片付けないと」

先輩は、カウンターに積まれた本を抱える。

話、全然聞いてくれないなこの人。

「じゃあ、私も……」
「あ、中西さんはいいよ。本、重いから」

気遣い……だと思う。

「はい。お言葉に甘えて」

私はカウンターに座りなおした。

一人カウンターに残ったって、人は来ないまま。

暇を持て余した私は先輩のことを見ていた。

本を片付けるのは意外と手際いいんだな……

なんて思いながら見てると、整理を終えた先輩が戻ってくる。

「なんか、めっちゃ見てなかった?」

バレてた。

なんて言おう。

「本の整理、手際いいですね」
「ああ、こう見えても図書委員三年目だからな」

そうだったのか。

「じゃあ、一年目の私よりも手際がいいのなんて当然のことですね」
「まあな」

どこか得意げな先輩。

しばらくして、閉館を告げるチャイムが鳴る。

「今日の仕事は終わりだな。お疲れ」
「はい、お疲れ様です」

校門を出て、先輩は道を左に曲がる。

次は右。

その次は真っすぐ。

そして、右。

駅に着いた。

うん。ここまでは一緒のこともあるだろう。

何駅か後、先輩は降りて改札を抜ける。

私もその後に続いて……

「あれ、中西も家この辺なんだ。割といるから不思議じゃないけど」
「はい……そうですね」

「中学どこ?」
「えっと、西中です」

そう答えた後、先輩は目を輝かせる。

「マジ!?俺も俺も」
「え、先輩もですか!」

ちょっとテンション上がっちゃった。

「あ、すみません……」
「いいよいいよ。俺も結構テンション上がったし。いやー......同中とは」

「なんか、先輩とは仲良くなれそうです」
「お、告白?」

「違います……!」

軽いノリ。

やっぱ仲良くなるのは保留かも。


好きな女優は黒島結菜、好きなキャラは綾波レイ。

このプロフィールだけでわかるように、俺は生粋のショートカット好き。

中西アルノに対しては、正直に言って一目惚れだった。

図書委員会で一緒だったことも嬉しかったし、帰り道が結構かぶってたことも正直ドキドキした。

多分、最初の印象はよくなかっただろうけど、そこはまあ、持ち前の気合で何とかした。

楽しいときの時間というのは、早く過ぎ去るものだ。

一緒に遊園地に出かけたり、動物園に出かけたり、ぶらぶらとショッピングに行ったり。

時には俺の苦手な爬虫類を見に行ったりもした。

おかげでだいぶ克服は出来たけど。

そんなこんなで、俺は卒業してしまった。

結局、俺の思いを伝えることは無かった。

きっと、俺達の運命が交わった日がいつなのかと聞かれたら、俺は大学二年の春だと答える。


大学の喫煙所。

たばこを吸い終えて、講義に向かおうとした時だった。

「あ、先輩」

聞きなじみのある声。

振り返るとそこにいたのは

「アルノ?」
「はい、お久しぶりです」

卒業式の日、涙目で俺を送ってくれた時よりも少し大人びた想い人の姿があった。

「なんでここに?」
「大学、ここに決めたので」

もう一度、なんで?と聞こうとして頭を回す。

「模試の結果覗いた?」
「そ、そんなことしません!」

どうやら、司書の先生から聞いたのだという。

「私が、なんでこの大学にしたのかわかりますか?」
「勉強したいことがここだと満足にできるからでしょ」

「はぁ……先輩はどこまで……」

「いや、冗談だって。その先は俺の口から言わせてほしいからさ」

『すきです』

こうして、俺達の人生は交じり合った。


「ちょっと、外冷え込んできたな」
「そうだね」

秋だね。

なんて、会話はくだらないけど、

「お腹空かない?」
「私も同じこと言おうと思ってた」

台所に立つ姿。

二年間の中で何回も見てる。

「いてっ」
「大丈夫?」

でも、包丁で指を切って、指から真っ赤な血を流す姿は初めて見た。

「ちょっと絆創膏とって!」
「はーい」

得意分野は何でもスマートにこなすから、

「はい、指だして」
「いいよいいよ」
「いいから」

こんなことするのも初めて。

「なんか、恥ずかしいんだけど」
「ふふ、私も」

彼は、嘘言えと笑った。

「ねえ、手伝おうか?」
「いや、いいよ。アルノはゆっくりしてて」

○○の言うとおり、私はパソコンを開いて課題を進める。

しばらくして、○○が配膳を始めた。

「今日は何?」
「肉じゃが」

自信ありげな顔を浮かべる○○。

さてどうかな……

なんて、疑いはいらない。

○○のご飯はいつも美味しいから。

手と手を合わせていただきます。

箸で掴んで、力を入れてしまうと崩れてしまいそうなじゃがいもを口に運ぶ。

「あ、美味しい……!」
「よかったよかった。じゃあ俺も」

○○は箸を握ろうとして、

「あれ?」

空振り。

「面白くないボケするね」
「ひどくない、それは?」

ケタケタと、○○は笑った。

「……?」
「なに、そんなに見つめて。俺の顔に何かついてたりする?」

「……別に?」

考えすぎかな。

夕飯を食べ終え、だらだらして。

何か、甘いもの食べたいねって話になってコンビニへ出かけた。


最近、疲れてるのかな。

確かに最近、課題のレポートは重いのばかりだった。
睡眠時間も短かった。

だからだろう。

視界が少しかすむ。

いつもならやらないようなミスをして、アルノに余計な手間と心配をかけさせてしまった。

目の前の箸がつかめなかったのなんて今まで生きてきて初めての経験だ。

「ねえ、○○は何食べる?」
「あー……いつものクレープかな」

コンビニから帰ったら、すぐに寝よう。

「おーい、帰るよ」

会計を済ませたようだ。


帰り道、何かおかしいなと思いながら、○○のことばかり見て歩いていた。

腕の振り方、同じ。

歩き方、ちょっとフラフラ。
多分疲れ。

何か、何かおかしいんだ、今日の○○は。

ここ三日会ってなかったのもあるけど、いや、だからこそ違和感が先行する。

……。

○○が、ギュッと目を瞑って首を軽く振った。

そして、目を掻いた。

「花粉症?」

目、どこかおかしいのかな?

「いや、多分疲れ。眼精疲労だと思う」
「早く寝ないと」

一晩寝れば良くなるか。

なんて、考えていた。


《その日から一週間後、○○は突如として姿を消した》



十月の割に、夏の終わりかと見紛うほどにうだるような暑さの日。

課題が忙しいからと○○に言われて、一週間会えない日が続いていた。

だから、今日は久しぶりに会える日。

講義は全然耳に入らず、九十分間がいつもの何倍にも感じられる。

退屈の終わりを告げるチャイムが鳴り、私はスキップでもするんじゃないかという足取りで大学を出た。

一週間……

一週間かぁ……

会ったら何しようかな?

一週間会えなかった分、とことん甘えちゃおっかな。

楽しみを想像するだけで、いつもと変わらないはずの川沿いの並木道も少々幻想的に見える。

人の姿が少なくなり、私は小走りで彼のアパートに向かった。


彼のアパートの前。

『302』

浮足立つ気持ちを必死で抑え込んで、インターホンを鳴らす。

そわそわしている私を、生ぬるい風が撫でる。

寝てるのかな?

一度電話をかけてみる。

呼び出し音が何度か鳴り、無機質な機械音が聞こえる。

『おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入っていないためかかりません』

甲高い発信音と共に留守番電話へのメッセージを催促される。

そわそわは不安に変わる。

じっとりとした汗が首元を伝う。

ドアノブに手を掛ける。

「あれ……?」

力を入れずとも下に傾く。

鍵が開いてる。

「は、はいるよ……」

私は、恐る恐るドアを開く。

玄関は綺麗に掃除されていて、靴は一つも出ていない。

「おーい、○○?」

呼びかけてみても返事は無い。

おかしい。

寝ているにしては不用心だ。

それ以前に玄関に靴が無いなんて言うのがおかしい。

怒られたっていい。

私は部屋に押し入った。

不安は疑念に変わる。

冷蔵庫が無い。

洗濯機が無い。

IHが無い。

電気ポットが無い。

あるはずのものがない。

洋室のドアを開ける。

そして、疑念は確信に変わる。

ベッドや机などの家具は一切置かれておらず、ただただ白い殺風景な部屋。

微かに残った埃が人が住んでいたのだということを感じさせる。

私はもう一度電話をかけてみる。

『おかけになった電話は……』

そこまで聞いて、ブツリと切った。

なんで?

私は何かないか、必死に探した。

なんで?

お風呂場も、トイレも、キッチンの棚の中も。

そして、クローゼットを開けて、一枚の紙の存在に気が付いた。

「なに、これ……」

まっさらな紙。

裏返したら、きっと何か書いてある。

だけど、それを見てしまったら。

呼吸が乱れる。

先ほどまでとは比べ物にならないくらいの冷や汗が首筋を、背中を伝う。

手が震える。

涙がたまる。

恐怖を押し殺して、紙を裏返す。

『ごめんね。さよなら』

所々ゆがんだ紙に、真っ黒なよれた文字で。

真ん中に、控えめに、よく見ると文字の端は滲んでいた。

「〇……〇……?」

たった一枚の置手紙と、ヒョウモントカゲモドキ。
そして、私の勘違いなのではないかと思うほど微かなウィンストンの香りを残して、彼は私の前から姿を消した。


『ごめんね。さよなら』

そう書かれた紙を、私は家に帰って一人で眺めていた。

なんで、何も言わずに消えてしまったのという怒り。

それももちろんあるのだが、

「どこに……行っちゃったの…..」

部屋の明かりもつけず、目を閉じる。

思い返される、彼との思い出。

出会ったころ、この人は苦手だと思っていたこと。

話してみたら意外と話しやすくて、友達と出かけることが滅多にない私がまさか二人で出かけるまでになるなんて思わなかったこと。

はじめは爬虫類が苦手だった○○が、時が経つにつれて「飼いたい」というほどまで克服してくれたこと。

大学に上がって、本当に飼ってくれてるとは思わなかった。

我儘も、たくさん言った。

あれが食べたい、これがしたい。

二人で寝てるとき、深夜三時に起こして星が見たいなんて言ったこともあった。

そんな我儘も、○○は笑って聞いてくれた。

しまいには、夜空に広がった満天の星空を見て、私よりもはしゃいでた。

相合傘もした。

ブランコに二人で乗って命の危機を感じたこともあった。

雪だるまも作った。

何回も、キスをした。

何回も、体を交えた。

何回も、たばこは外で吸ってって注意した。

リアルで、鮮明な思い出は瞼の裏で、何度も何度も繰り替えす。

いいよ。

部屋で吸ってもいいから。

嘘でもいいから。

「そばに、いてよ」

寒さか、はたまた違う何かか。

体が震える。

寂しいよ、○○。

手を、握ってよ。

せき止めていた何かが壊れたかのように、涙が溢れる。

きっと、防衛本能だ。

このままじゃ、私の心が傷ついてしまうから。

こんなんじゃ、流れてなんていかないってわかってるのに。

涙と一緒に、彼との思い出を流してしまいたい。

「……っ……うっ……こん、なの……っ」

お願いだから。

「……っ……消せ、る、わけ、ないじゃん」

私を、一人にしないでよ。

かすれた、言葉にならない叫ぶような声が、虚しく部屋に消えていった。


一時間……いや、二時間は経った。

たぶん、一週間分は泣いた。

泣いて、泣いて、泣き疲れて。

私は、のどが渇いて冷蔵庫を開けた。

1.5リットルのミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、冷蔵庫から漏れる明かりだけを頼りにコップに注ぐ。

それを一気に飲み干すと、不足していた水分が補充され、体に染み渡る感覚がした。

多分、もう一回泣こうと思えば泣ける。

ふと、机の上に目が留まった。

彼が以前うちに泊まりに来た時に置いて行ったたばこの箱と、ライター。

持ち上げて振ってみると、カサカサと音がする。

中身は三本。

私は一本取り出して、口にくわえる。

ハッとしてそのままベランダに出る。

車が走る音、クラクションに怒鳴り声。

そんな街の喧騒を尻目に、私はくわえたたばこに火をつける。

見よう見まねだ。

ゆっくり、慎重に吸い込んでみる。

「ゲホッ……なにこれ……」

思い出されるあの日のやり取り。

『たばこってどんな味なの?』

『大人の味、かな』

こんなのが、大人の味?

「バカ、なに、大人の味って」

私にはわからないよ。

どうやって処理していいかわからなくて、水道でよく湿らせてからゴミ箱に投げ捨てる。

まだ下に残る、ピリピリとした感覚は少し不快で。

頭の中に反芻する彼の声に異を唱えるように。

だったら、私は大人になんてならなくていいよ。

寂しさの波がもう一度押し寄せてきて、私はたばこの箱を握りしめたまま、部屋の真ん中、崩れ落ちて。

子どものように泣きじゃくった。


どんな時でも、太陽は昇る。

朝日に照らされて、落ちた涙が輝く。

スマホのアラームが七時になったことを告げる。

低く響いた音が、空腹を報せる。

それはそうか。

生きている限り、どんな時でもお腹は空くんだ。

私はよろよろと立ち上がり、壁に手を当ててキッチンに向かう。

開けた冷蔵庫には、昨晩雑に入れたミネラルウォーターのペットボトル。

その陰に隠れてヨーグルト。

食器棚から器を出して、ヨーグルトと一食分のグラノーラを入れて混ぜ合わせる。

…………。

無感情に食べ終えて、食器を片す。

今日は、二限から。

気分は乗らない。

もうこのまま休んでしまおう。


だけど私は、結局大学に来てしまった。

講堂に行けば。

食堂に行けば。

グラウンドに行けば。

図書館に行けば。

木の下のベンチに行けば。

喫煙所に行けば。

どこかに、あなたの姿があるかも知れないと思って。

だけど、○○の姿はどこにもない。

あんな置手紙をされていたのだから当然と言えば当然のことだ。

いるはずなんてなかった。

「あれ、君…..アルノちゃんだよね」
「はい。えっと……」

「ああ、○○の友達の石川。まぁ、あんま話したこと無いし知らなくてもしょうがないか」
「すみません……」

空気、重い。

会話、どうしよう。

逃げちゃおうかな。

「ねえ、今日あいつは?てか、最近見てないんだけど」
「あ、えっと……」

この人になら、話してみてもいいかな。

「○○、家にもいなくて。行ってみたらこれが」

私は○○の置手紙を見せる。

「『ごめんね。さよなら』……あいつ、バッカだなぁ。アルノちゃんには一言、話していくべきだろ」

石川さんは、顎に手を当てて何やらぶつぶつ言っている。

「私、嫌われちゃったんですかね」

このことを人に話すのは初めてだから。

心のどこか、蠢いていた悪い虫が口を突いて出てしまった。

「え、何言ってんの?」

石川さんはぽかんとした表情を浮かべている。

「あいつがアルノちゃんを嫌ってるわけないじゃん。めっちゃ話してたよ、君のこと。爬虫類と戯れてる時がかわいいんだとか、歌がうまくて思わず泣いちゃってとか……」

「あ、あの、もういいです……!」

私は恥ずかしくなって、思わず遮ってしまう。

「ごめんごめん」

石川さんはからかうように笑っていた。

「でも、いっぱい聞いてたのよ、それはもうこっちが恥ずかしくなるくらい」
「そう、なんですね……」

「だから、嫌われたなんて思っちゃだめだよ」
「はい、ありがとうございます……!」

涙が零れ落ちそうなのをグッと堪えて。

○○捜索の情報交換のために連絡先を交換して別れた。

およそ一か月が経った頃。

十二月の上旬。

石川さんからの連絡。

『あいつ、地元にいるらしいぞ』


「では、年内の講義はこれで最後かな」

早く、終われ。

早く、早く。

○○は、地元にいる。

だったら、探しやすい。

探している間は実家に帰っていればいい。

翌日、私は早速帰省して、○○に会いに行くことにした。

電車を乗り継いで、最寄り駅まで。

年末だからだろう、いやに人が多い。

「すみません……すみません……」

人をかき分けて進路を確保。

人混みを抜けて、懐かしい風景が目に入る。

その風景の中、見覚えのある背中を見つけた。

その人を目掛けて私は走る。

追い付いて、私は腕をつかむ。

「ねえ、○○?」

見間違えるはずなんてない。

この二ヶ月、あなたを想わなかった日なんてない。

誰よりも、何よりも考えてきた。

「ねえ、○○なんでしょ?」

振り返ったその人は、

「……その声、アルノか?」

悲しそうな顔で、私の少し右に視線を送っていた。

「なんで、ここに……ってアルノも家この辺だもんなぁ」
「なんで、あんな手紙……」

「今日、寒いな!」

○○は私の話を遮る。

「ねえ……」
「あ、疲れただろ、喉乾かない?」

「聞いてってば!」

声を荒げた私に、○○は驚いた表情を浮かべる。

「……ごめん。聞きたいことなんて、いっぱいあるよな」


「とりあえず、どこか座ろっか」


○○は、一歩一歩確かめるようにゆっくりと歩いていた。

駅からそんなに遠くない公園のベンチに二人で腰掛ける。

「なんで、急にいなくなったりしたの?」

これを聞かないことには話は始まらない。

最初の疑問。

最大の疑問。

「あー……その……俺、目がね」

目?

「視力が、どんどん落ちてるんだよ。今はぼんやりと見えてるくらい」

あれが木で、あそこに何人か人がいる。あ、性別はわからないよ。なんて指を指している。

「網膜剥離。聞いたことあるでしょ?」
「片目?」
「いや、両目」

○○曰く、放置してしまったのが悪かったらしい。
不調は十月あたりからあったという。

そこまで言って、○○はポケットからたばこを出す。

「あ、さすがにダメだよね」
「まだ何も言ってないよ」

苦笑いしながらもう一度ポケットにたばこを戻す。

「石川さんが心配してたよ」
「ああ、あいつにも何も言わずにこっち来ちゃったからなぁ」

悪いことしたな。と言って、空を見上げた。

じゃあ、連絡すればいいのに。

なんて思ったけど、多分そう言うことじゃないんだと思う。

「寒いな……風邪ひかないうちに帰んなよ、アルノも」

○○はベンチから立ち上がる。

「あと、俺のことは」

やめて。

そんなこと、言わないで。

「忘れてくれると……」

頭で考えるよりも先に、私は○○に抱き着いていた。

「いや」
「……離して」

「やだ」
「我儘?」

「うん」
「離して、くれないと……」

すすり泣く声が聞こえた。

私は○○の背中に顔を埋めたままだからその真偽はわからないけど、多分○○の声だ。

「ちょっと、一回離して」
「やだ」

「どこにも行かないから」
「……わかった」

私が手を離すと、○○はもう一度ベンチに座りなおした。

「あーあ、泣くつもりなんて無かったのになぁ」
「私は、もっと泣いたよ」

「それは、ごめん」

○○は、結局石川さんに連絡をしていた。

それで、すぐに電話がかかってきて。

スピーカーにもしてないのにすごい怒られてるのが聞こえてきた。

「石川さん、すごい怒ってたね」
「ああ、アルノのこと大事にしろって怒られちった」

○○は、私の頭に手を乗せた。

「何回も言うけど、ごめんな。何もいわないでどっか行くのはダメだったな」
「ほんとに……バカ」

木枯らしが吹いて、さっきまでは寒かったはずなのに。

なんでだろう、今は、暖かい。

「ねえ、俺から我儘、言ってもいいかな」
「うん、もちろん」


「はぁ……」

煙が、寒空に立ち上る。

「我儘って、これ?」
「ごめんごめん。実家だとあんまり吸えなくて」

久しぶりのたばこ。
なんか、落ち着く。

ただ、隣からの視線は痛い。

「そんな冷ややかな目で見ないでよ」
「初めて、自分からわがまま言うからもっと可愛げのあることだと思ってたのに」

アルノがポケットを漁る。

「これ、返しとく」

差し出されたのはウィンストンの箱。

「ああ、前に置いて行ったやつ?」
「そう、○○が言ってた大人の味ってやつは全然わからなかったけど」

「え、吸ったの?」
「一口だけ。まずかった」

「それでいいんだよ。こんなの、吸うもんじゃない」
「でも……」

アルノは、もう一度たばこを鞄に押し込んだ。

「やっぱり、返してあげない」
「なんで」

「私だって、大人になりたいから」

そういって、無邪気に笑った。

そんな君の笑顔を、ぼやけた視界で、満足に見ることもできない自分に心底腹が立った。

そして、悲しくなった。

「我儘ついでに、もう一つ、いいかな?」

もうすぐ、俺の目は見えなくなる。

だから、最後に。


街は綺麗に彩られ、雪が光を反射してより一層鮮やかに見える。

「お、流石。時間通りじゃん」
「○○は早いね」
「楽しみだったからな」

○○の、もう一つの我儘。

『俺と、デートしてほしい。まだ目が見えるうちに、アルノの楽しそうなところ見せてよ』

そんなの、お願いされるまでもない。

『もちろん、行こう!』

日にちは相談し合って、クリスマスにすることにした。

「じゃあ、行こうか。ディナーは予約してあるから」

歩き出そうとする○○を捕まえる。

「手、つないでて……ほしいかも」
「ああ、もちろん」

指と指を離れないようにしっかりと絡ませて、歩き出す。

「ちょっと、たばこ臭くない?」
「マジ?ちゃんと落としたんだけど……」

そんな、微かな匂いすらごまかせないほどに近く。

ぴったりと、くっつきながら。


「ん……美味しい……」
「確かに、やっぱ高いとこは違うな」

出てくるコース料理全部がハイクオリティ。

いくらしたの?って聞いても○○は答えない。

まあまあって言うだけ。

なら、私も聞くのはやめて楽しむことに専念した。

「いやー美味かった」
「うん、また来たいね」

「いくらでも連れてってやるよ」

私たちはお店から出て、もう一度固く手をつなぐ。

「次は、イルミネーション見に行こう」

光の中の動物園。

イルミネーションで形作られた様々な動物たちが、楽しそうに世界を照らす。

「アルノ、動物好きじゃん。こういうのかわいくていいかなって」
「うん、綺麗……」

幻想的な光景。

木々を彩る光の道を、動物たちが駆け回るような。

「ねえ、○○は楽しい?」

野暮かもしれないけど。

ディナーの好みも、イルミネーションのテーマも、全部全部、私の趣味趣向に沿ったもの。

だから、思わず聞いちゃった。

「何言ってんの。俺のが楽しんでるよ。自分も楽しんで、アルノが楽しんでるのも楽しんでるからね」

あーあ。

言わせたみたいになっちゃった。

「ねえ、○○」

「ん、どうした?」

「キス、して」

「ここで?」

「お願い」

仕方ないなぁ。

一言ぼやいて、唇が重なる。

急にこんなこと言ってごめん。

だけど、○○が聞いてくれるのが悪いんだよ。

「はい、満足?」

「……うん」

「ちょっと、恥ずかしがらないでもらえますかね」

「はい、次行こう!」

照れを隠すように。

私は彼の手を強く握った。


綺麗に彩られた市街地から少し離れて。

私たちは街灯だけが照らす並木道を歩いていた。

「今日は、楽しかった?」
「うん。久々に○○とデートできたし」

「ちょっと、しゃがんで」
「ん?」

少し膝を折る○○。

低くなった○○の顔に私は近づいて。

今度は私から。

「ん…..?」

「ん……!」

少し、長めに。

「うわ、びっくりした!顔、赤くね?色はわかるよ、俺」

そんなに、赤い?

恥ずかし……

さっきのもそうだけど、久しぶりに会えたから、色々おかしいかもな、私。

「そうだ、アルノに、プレゼント」

肩をポンとたたかれて、ふわっと、首元が温かくなる。

「ちょっとお高いマフラー。温かいと思うよ」
「あ、ありがと」

丁度良かった。

これで、真っ赤な顔も隠せる。

顔の熱さが引くまで少し歩いて、私は○○の手を放す。

「ちょっと、待って」

私は鞄から、丁寧に包装された袋を取り出す。

「これ、私からの……」

冷たい風が吹いた。

強い、風が吹いた。

飛ばされてしまいそうなほどの風。

私のマフラーが道路に飛ばされる。

「あ、マフラーが」

道路に……!

そこまで言うと、○○が道路に落ちたマフラーを拾い上げる。

「もう飛ばされるな……」

エンジン音と、ハイビーム。

法定速度を大幅にオーバーした外国車。

「〇〇……!」

耳を劈くようなブレーキ音が夜の並木道に響き渡る。

鈍い音と、鮮血。

ボンネットに乗り上げて、振り落とされて動かない。

「え、なんで......」

○○?

駆け寄り、呼びかけてみても返事はない。

赤く、鉄の匂い。

足元までどろりとした液体が進行してくる。

辺りが騒がしい。

サイレンの音。

何か、呼びかけられてる?

○○から引きはがされる。

やめて。

○○が、どこかに行っちゃう。

もう、離れたくないよ。


翌日、頭が整理できないまま報せを聞いた。

人の命は、なんて儚く、脆いのだろう。

不思議と、涙は出なかった。

でも、それはたぶん○○が死んだなんてまだ信じられていないからだ。

何日か経って、○○のお葬式が行われた。

棺の中で眠る○○の顔は、交通事故に遭ったものとは思えないほどきれいな顔をしていた。

「はやく、起きないと......」

○○のご両親は泣いていた。

なんでだろう。

まだ、寝てるだけじゃないの?

…………。

なんて、本当はわかってる。

色は見えるって言った。

あれはきっと本当。

でも、光は見えてなかったんでしょ。

ずっと、視界が眩しいから。

きっと、あの時のイルミネーションだって、あんまりわからなかったんでしょ。

「なにか……いってよ……」

棺に手を掛けたまま、私は立てなくなって。

大粒の涙が、零れ落ちる。


季節は巡る。

どれだけ私が立ち止まっていようと、桜は咲くし、入道雲は空を泳ぐ。

「久しぶり、○○」

太陽が、身を焼き焦がすような夏の日。

私は初めて○○のお墓にやってきた。

お花を添えて、お線香をあげる。

「○○、たばこは大人の味って言ってたね」

私はポケットから二本しか入っていないたばこの箱から一本取り出して、口にくわえて、火をつける。

吸い込んで。

案の定、せき込んだ。

煙が目に染みて、涙がにじむ。

「私、まだその味わかんないみたい」

滲んだ涙は、頬を伝う。

空へと昇ったウィンストンの煙。

そして、その香り。

わたしはきっと、死ぬまでこの匂いを忘れられない。

わたしはきっと、この匂いが鼻孔をくすぐるたびに振り返って.

そのたびに、私はあなたを思い出して泣くんだ。

いつか、その涙を、あなたに拭って欲しいな。

……なんて、《わがまま》だよね。


……end


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?