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GAFAM対抗!人類育成バトル

子どものころ、「クビ」という表現を初めて目の当たりにしたときのことは今でも覚えている。
父親が会社での出来事を家で話していて、何かの拍子で「そんなことしたら首が飛ぶぞお〜」みたいなことを言ったんだと思う。
当時3歳くらいだったと思うが、その時ごく普通に、会社という組織では物理的に人間の首を刎ねる行為が行われているんだと悟った。

ショックを受けたが、でもそれが世の中の当たり前なのかもと妙に納得してしまった。戦争とかそういうことが地球のどこかで行われていることを当時なんとなくだが分かっていたし、子どもの頃読み聞かせられた昔話も残酷表現のオンパレードだったので、そんなに驚くこともなかった。
例えば、身の回りで公開処刑のようなものを肉眼で見かけることはなかったとしても、我々の血は残酷な歴史にあらかじめ適応してしまっているのだろうと思う。
まさに、So it goes.(そういうものだ)という感じに。

近年は何かと「不適切な表現」を断じられることが多いが、その風潮を無批判に受け入れることは、言葉の中に潜んでいる人類の業を無効化することにはならないだろうか。と個人的には思う。
何かかが炎上しちゃった時、義憤に駆られる前にもっと自分の胸に手を当てて「ありゃ、業が漏れちゃったね〜」という自戒がもっとあってもいいと思う。
我々が他者のつもりの何かを怒りで袋叩きにする時、その中身の正体はなんだろうか。うまく言語化できないが、"集合的無意識的な領域での自己批判"ともいうのだろうか…。「自分は歴史を知っている」ことで逃げた気になっているのは、それこそ「特権性」への無自覚じゃなかろうか。

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