僕らが旅に出る理由というタイトルで、僕らは何回筆を取るのだろうか
メモ
書き言葉はその人のすべてではないし、ジャンルは思想ではない
楽しいは逃げではないし、落ち込みは不満ではない
怒りの成分は悲しみや虚しさという形の愛情かもしれない。
拡がれば拡がるほど、見たいものは少なくなって、向き合えば向き合う程オープンになっていく。
追記
感覚のそれぞれをそれぞれのまま生きたい人と、
感覚はそれぞれだからそれぞれをどう使ったら生きられるか、を考えたい人
イコールだけどイコールじゃないもの。
私の発言はだいたいネガティヴに捉えられる。
「楽しいことを増やしたい」と「悲しいことを減らしたい」だと断然後者の表現方法なのですが、悲しいこと減ったら楽しいことしかないじゃんと思ってて、だからだと思う。
そもそも、わくわくとか楽しいとかに重きを置くと誤解を生みやすい気がするので無意識に避けているだけかもしれない。
私は私の大事にしたい人とその人が大事にしたい人くらいの範囲まで大事にして生きていきたいな。それくらいが今の自分では精一杯で。
言葉は言葉でしかないけど、言葉でしかないから心を込めたいし
ジャンルは思想ではないからありったけをぶつけるのではないか
その一秒の判断が許せないときもあるから、その一秒を伝え切りたいと思うこともあるんじゃないか
どうでもいい相手じゃないから泣きたくなるのかな、とか
違うから知りたいし、知るから面白いんだと思っていた。分かり合えることなんてないから、私達はたくさんの表現方法を持って、何度でも挑戦できる。
パズルのように暮らしの必要な部分にだけ呼ばれたい。いろんなところでただの一ピースになる。
もしかすると、誰かはこれを居場所と呼ぶのかもしれないな。
言葉なんてそんなものだと思う。だから、とても大事にしている。
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