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アルビノな私の髪染め歴史

私自身のコアな部分、特に髪の毛の色、髪染めについて書きます。
(時々漢字間違いや書きミスなどで編集)

私はアルビノ (アルビニズムとも言います)です。色素は薄いタイプで髪色はプラチナブロンド。(顔のうぶ毛や手足は白で毛深い。弱い皮膚を守るための自然の防御機能なんだと思うが毛深さは悩み)
この髪色に相当なコンプレックスを何十年も抱いてきました。ところがある時点からコンプレックスが薄らぎました。

話が少し年代を遡ります。私が生まれた時(1953年)、両親と親戚中が驚いたそうです。そしてそれは母親のせいにされたのでした。五島列島の田舎の小さな村では「白い子が生まれた」は、まさに秒で広まりました。世間体を重んじ私の髪の毛は、生後すぐに黒く染められました。

小2の冬、大阪に引っ越しました。都会の大阪では五島より理解し受け入れてくれる方々もいましたが、まだまだ世間体や差別は両親を苦しめたようです。
娘不憫さと親の見栄の両方で私の髪を染める事は続けられました。でもね、客観的に見て髪だけ黒く染めても眉毛や睫毛は白いのです。

その違和感が、物心つき出した頃から私の中に芽生え、どんどん膨らんでいきました。髪の毛が黒いとぱっと見“普通の子”に見えると両親や親戚は思ったのでしょうね。
私の髪は太くて剛毛なのに、1ヶ月ごとの毛染めで髪の毛が更にパサパサになるんです。今みたいな痛みにくい染料はなかったしね。

1ヶ月毎に染めるったってね、日に日に根元が白くなっていくのです。現在のようにリタッチ用品なんてなかったし逆プリン頭 になっていくのがとても嫌だった。恥ずかしかった。でも親には言えず、早く自分の意思で毛染めをやめる 年齢になりたいと願っていました。
そして、その日は来たのです。

高校2年の夏休み友達に誘われて一緒にバイトしました。そのバイト代でウイッグを買い、髪の毛の染料が完全に落ちるまで、染めた部分を自分でハサミで切りながらウイッグを被り続けました。美容室でカットしてもらえる長さになってウイッグとサヨナラした時の開放感と爽快感と自由感最高でした。

染められた黒い髪の毛から急にプラチナブロンドで登場した私を見て周りは仰天!ある教師が「お前その頭どーしたんや」と言った以外は誰も何も言いませんでした。そりゃね声かけし難いでしょうよ。グリーングレイの瞳に白い肌、眉毛は描いていたけど睫毛は白い。事情を推察していたのでしょう。

地毛色に戻してから髪の毛伸ばしました。一番長い時で肩甲骨の下あたり。髪色も少し黄色味が増していきました。
いつ頃か忘れたけど、世の中にお洒落ヘアカラーが流行るようになりました。何事にも興味津々な私。私もやってみようと思ったのです。

色々試して、髪の毛全体染めず部分的に色を入れるとサマになる結果を導き出しました。
1色だけでなく、2色つかい、3色つかいと地毛色を活かしたカラーリングを楽しめるようになりました。派手さも増してきました。(笑)

カラーリングを楽しめるのは、私の髪の毛が白い訳、髪の毛の質、色の出方や組み合わせ、カットの仕方などを美容師さんがプロの技を駆使 してくださるからです。地毛色に対するコンプレックスがゼロではないけど、こんな経緯で薄らいでいったのです。

歳を重ねるごとに、特に還暦過ぎたあたりから、私の髪は全白髪と思う方々が多くなったようです。そうなると生まれつきプラチナブロンドですと突っ込みたくなる変な私。(笑)

現代でもアルビノは2万人に1人の割合で生まれるという。私のような逆髪染めの人(体験)が減ること、ありのままの自分でいられることを願っている。
その上で髪色(髪染め)を楽しんでほしい。
私は古希を迎えた今(2023)も髪染め楽しんでいます。相変わらず派手気味色ですが。

長い話になってしまいました。


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