ベルばらの頃を過ぎても

ベルばらの頃を過ぎても

「時よとまれ、お前はあまりに美しい」
国鉄渋谷駅。彼女は外回り線の夕日のあたるホームの上でそういった。それからずっと、確かにその瞬間は停止したまま、そこにある。

「次からはフランス革命」。授業の終わり際、西洋史の先生が告げ、男子を含め教室全体からわっと歓声と拍手がおきる。前の授業時間、隣のクラスから聞こえていた歓声はこれだったのか。
 その頃の私たちにとって『フランス革命』は特別な響きがあった。発震源は漫画『ベルサイユのばら』だ。「オスカル様に会いに生まれ変わる、と自殺した少女がいる」という都市伝説がささやかれるほど、世界は『ベルばら』の発する叫びのようなエネルギーに包まれていた。
 毎週私たちは、高校のある駅前の本屋で何故か発売日前日に店頭に並ぶ週刊マーガレットを買い、ガード下にある喫茶店で砂糖に群がるアリのように団子状になって一冊の漫画本の一ページ一ページをなめるように読んだ。お目当てはもちろん連載中の『ベルサイユのばら』だ。週ごとに3,4人。その顔触れは一人二人の増減はあっても、私と彼女は常にそこにいた。

 小さい頃読書と漫画を禁止されていた私は素直に漫画と本に縁のない日々を過ごし、別段の不便を感じずに成長し、高校生になっていた。当時の心象を思い返すと何もない野原に一人ぽつんと立ち尽くしている感じだ。何を見ていいのか、何を聞いていいのかの指標がない。しかし元からそういう存在を知らない者にとってそれは別に不幸なことではなく、毎日満足し、のんびりと周りを眺めていた。
 そこに、彼女が来た。
 彼女との出会いは、特別なものではない。互いの姓があいうえお順に近く、出席番号が隣り合わせだっただけだ。そうなると、化学実験などの移動教室で同じ机になる機会は増える。ただそれだけのことだ。
隣に座った彼女と初めて軽く挨拶をした瞬間、「ああ、そうだ」と私は思った。翻訳するならば「yes」が一番近い。数学の証明問題の最適解を見出した時のような、完璧にしっくりくる快感。言葉を交わしたその始めに、その感覚が私を満たした。後付けすれば「ああ、この人だ」とかいう言語で表現できるのかもしれないけれども、それよりもっと原初的な感じだ。
 経験が浅く、書物からの知識もない私はこの感覚が特別なものだとはわからない。いつでも誰でも、気の合う相手なら初対面ではこんな感じがするのだろう、と、ぼんやりと感じるだけだ。人生に二度と訪れないだろう宝物だった、と知るのはずっと後のことだ。
 そこからすべてが始まった。
 ベルばらがまずモノリスのように現れ、漫画、小説、映画、漫画、音楽、漫画、小説、絵画、漫画。なにもなく穏やかだった野原に、嵐のように情報が吹き込んでくる。
 ぼんやり立ち尽くしていた猿にモノリスを与えたのは、彼女だ。生まれたてのヒナが最初に見たものになつくように、私は彼女になついた。読んだ本でおもしろかったものを報告し、漫画の感想を言い、ケストナーって何?と聞いたり、エンデの「モモ」のどこがいいかわからない、と言って悲しそうな顔をされたり。彼女は気の毒な捨て猫の面倒をみるように辛抱強く私と向き合っていた。二人でさまざまな賞を作り、お気に入りの作品の中から今年の文学賞、絵画賞、漫画賞等々の受賞者を選出したりもした。
 彼女はさまざまなことを私に教えた。彼女の導きがなければ、『ベルサイユのばら』という漫画の存在は知らないまま、西洋史の授業の終わりの歓声から一人取り残されていただろう。
 その頃、倫理社会の時間に、アガペーという愛の在り方を知った。無償の愛、と説明される。相手に何も求めず与えるだけの愛、というような説明を教師はした。私はなぜか嫌なことを聞いた気持ちになった。闇の詰まった『石炭袋』の穴の底を突き付けられたような、自分の恥部を指摘された感じ。認めたくはないけれど、それは彼女に抱く私の気持ちの歪みから来ていることはわかっている。彼女と私との間にある感情は、愛というものに近い。しかし愛というものは天秤の二つの皿に乗った感情の交流だ。その点で私たちの関係はとてもバランスが悪かった。一方的に与える者と、それを受けただ消費するだけの者。初めから天秤は傾いていた。そんな高低の明らかな関係に気づかないふりをしつつ、本当は気になっていたのだ。それを、倫理のいけ好かない教師に暴かれたのだ。
 彼女の愛はその「アガペー」というやつなのでは。そういえば彼女はカトリックの洗礼名を持っており、話に聞くご両親も善きサマリア人そのものだ。それは、実利が価値基準の中心にある商売人の家で育った私の周囲にはなかったもので、私の愛の範疇からは外れている。
 私も何か彼女に与えられればいいのに、と自分を見渡してみる。けれども彼女の利になるようなものは私には何もない。利を与えることが愛だと思っている私は、そのふがいなさとバランスの悪さを抱いたまま、それでも彼女のそばを離れなかった。後に「惜しみなく愛は奪う」という言葉を知ったとき、似たような愛の歪みを知る者は自分以外にもいるんだな、そしてこういう居直り方でその上に胡坐をかいてしまう、というやり方もありなのか、と心底驚いたものだ。
 でも高校生の、外界からの情報に触れ始めた幼稚な私がそんな胆力を持ちうるはずもなく、私は彼女が指さす光のまぶしさに惹かれ続け、その光の強さ故に闇が生まれていくのを感じていた。あなたはなぜ、私にそんなに優しいのか。あなたはなぜ、私の隣にいるのか。その問いがのどに引っかかったままで。

 マーガレットを、というかベルばらを読み終え、上気した頬のまま少女たちは喫茶店を出る。そのまま徒歩で帰る者、反対方面の電車に乗る者、途中駅で地下鉄に乗り換える者、渋谷でバスに乗る者、と別れていき、最後、国鉄渋谷駅の外回り線のホームには彼女と私の二人が残る。季節は移ろう。日没の時刻も変わる。でもいつも、渋谷駅外回り線ホームの後方は西日があたり、黄金の光を帯びている。
 毎日毎日何を話していたのだろう。ホームのハチ公前口に降りる階段裏のミルクスタンドで時々高価なジャージー牛乳を買う贅沢をして、西日の中で一緒に飲んだことは妙にはっきり覚えている。心に影はあるものの、日常では何がどう、ということもなく、そんな二人の時間がただ、楽しかった。あなたはどう?私は彼女を見る。彼女も楽しそうに笑っている。のどの奥に残る牛乳の匂いが気になる。私にとって、アガペーは残酷な呪いだ。

 そして、あの日、ふいに彼女はあのセリフを言ったのだ。国鉄渋谷駅の西日の当たる外回り線のホームの上で。
「時よとまれ、お前はあまりに美しい」
 これはゲーテ「ファウスト」に出てくる有名なセリフだ。別に私たちがゲーテを読み込んでいたわけではない。いや彼女は読んでいたかもしれないけれど、少なくとも私にとってそのセリフは、当時私たち二人が永世漫画賞を授けたいほど好きだった大島弓子さんの作品『ジョカへ』のラスト近くで引用されていた一節だ。
 いつもの少し高めの、丁寧なしゃべり方。気取ったり自分を実体以上のものに見せよう、などという欲のない、ただ感情の高ぶりが記憶の中からこの言葉を選び出したのだ、という自然なかんじで彼女はつぶやいた。私に聞かせるでもなく。事実、その仰々しいセリフを声に出してしまったことを恥じるように、しばらく彼女は怒ったような顔をしていた。頬の産毛が西日を受けて金色に輝き、わずかにそむけた顔の輪郭を縁取る。
 言葉に対して薄っぺらな私は、おそらくその一節の真の意味は理解できていない。でも、これだけはわかった。この瞬間のすべてを、彼女は肯定している。私にとって尊く美しい、二人だけが立つこの時間この空間を、彼女も留めたいと願っている。
 思わずつぶやいたあの一節に、彼女の心が込められていた。のどに詰まって言い出せなかった私の問いに、彼女はそんな形で答えてくれた。

 今日、JR渋谷駅が変わっていく。もうあの国鉄渋谷駅はない。銀座線からホームに降りる小さな改札も、東横線に通じる階段も、あの、西日のあたるホームもなくなるのだろうか。一瞬、見納めに行こうか、という思いが沸く。
 その時、彼女の声がよみがえった。
 お前はあまりに美しいと言える時間。永遠に留まれと思えるほどの肯定の世界にいることが、どんなに幸せなことかを、今の私は知っている。そんな単一結晶のような時間が私にもあったことは本当の幸いだ。

国鉄渋谷駅外回り線ホームは西日があたったまま、そこにある。どんなにJR渋谷駅が変わっても。

ちなみに、その後私が深く心の交流を持った人は彼女以外に二人いて、偶然にも皆カトリックで洗礼名を持つ人たちだ。よほどアガペーの愛がないと、私の面倒はみられないようだ、と自分の業の深さを思い知る。ちなみに私は仏教徒です。

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