ハッピーアワー

濱口竜介監督の映画ハッピーアワーを観た。
5時間を超える作品で、言葉は悪いがあらすじもいまいちパッとしないし、途中で飽きてしまうのではないかという心配は杞憂で、緩急のついた脚本でずっと前のめりで観れた上に、この映画を観てから今日まで1週間近く考え続けてしまうくらい人生についての示唆に富んでいて素晴らしかった。

作中では、登場人物たちの言葉に対する主張が繰り広げられるのだが、作中語られる登場人物たちの主張は自分がこれまでの人生で感じてきた意思疎通するうえでのやるせなさを解消するため、考えてきた思想そのもので、特にある一人の言葉に対しての向き合い方が(意識的ではないにせよ)自分とあまりにも似ており、少し戸惑うくらい感動した。

言ってしまえばわたしは全ての人が自分の為の言葉を使わなければ本当に幸せになることは出来ないと思っている。人のことを想っているような誰かの為の言葉を使う優しい人物たちを差し置き、本当の幸せが見えているのはその人物ただ一人なのではないか。そして私にはそれがとても真っ当なことに思え、人の気持ちを推測して言葉を使うことの方がよほど勝手で卑怯なことだと思ってしまう。逆に言えばわたしは誰もが自分の幸せを本気で願えば世界中の人が幸せになれると信じていて、それが唯一の方法であるとさえ思っていた。しかし、この映画で描かれるように、思っていることを言わない人に対して誠実に言葉を使うことは難しく、無意識に他者の幸福度を自分の幸福度に置き換えてしまう人は堪えきれずに泣いている。所謂人の心を持っている人はそんな世の中に目を瞑り自分だけ幸せになることは出来ないのだろうし、だとすれば誰もが幸せになれる方法なんてないのではないかという残酷さ。
一旦落ち込んだところで、監督はなぜそのような事実を淡々と描くことができるのかとふと気づき、監督の目に写っている世界を想像した。はじめは、日常的な範囲を超えずどこか見覚えがあるよう特徴的を捉えた人物達と、2、30代の大人が数人集まって人生で1番印象的だったエピソードを持ち寄ったらこうなるんじゃないかというような出来事の絡み合いから、リアルさを模すことがこの作品の魅力であると感じていた。しかし、「演じること」を重視している監督は、おそらく世の中の残酷さなんてものは優に超え、誰もが思っていることを言葉にして伝えることは不可能であると悟っているのではないか。そしてそれこそが現実の美しさであると知っているのではないか。そこで、一見リアリティを追求していように見えるこの作品が、役者の台詞と演技によって逆説的に最も映画的な映画であることに気が付いた。

すべての人が自分の考えていることを言わないからこそ、本心と言葉の距離が測れないからこそ、人生には映画とは違った面白さがある。自分の言葉に対する姿勢が登場人物の台詞として主張されたうえでその事実に気づくことができて肩の力が抜け、わたしはとても救われた。出会えて本当に良かったと思う。

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