見出し画像

わたしが映画として見た『Tokyo Summer』(脳内で)

 さてさて、文学サークル“お茶代”の8月期課題が発表されました。今月は「わたしが見たTokyo Summer」というわけで、さっそく鑑賞してみました。

 本作は、全米で公開されたのが2014年ということで、本稿執筆時点(2022年)からすると、およそ8年前の作品となります。本作における中心的ギミックとなっているVRシステムを世間的に一般的なものとした出来事が2012年のOculus Riftの登場だったとすると、映画の題材にするにはちょうどよかった時期だったといえるのかもしれません。

 早速、本作のあらすじを踏まえたレビューに移行しようと思いますが、ネタバレらしいネタバレはもう済ませてしまった気がするので、まだ本作をご覧になっていない、という方はこのすぐ後に埋め込まれている本編ムービーを先にご覧になることをお勧めします。また、本作については、ノベライズ作品が無料公開されているため、より詳細な内容を味わってみたいという方は、併せてそちらも読んでみることで、本作の体験がより充実したものになるかもしれないし、ならないかもしれません。

 主人公の一人、穣一が、ある夏の寝苦しい夜にVRゴーグルを装着して“Reality”と呼ばれる世界に涼を求めるところから本作の物語は始まります。ちなみに私も、眠れない夜にVRの世界にダイブして、Google Earthを使って北極へ行ってみたりすることがあるので、穣一の行動には意外と共感するところがあったりします。といっても、極地の場合、ストリートビューで見られるのはごく一部の限られたエリアだけなのですが。

 さて、あらすじに話を戻すとします。ナビゲータAIに薦められるままに穣一が訪れることになったのは、大きな滝を臨むホテルの一室。そしてそこには、今日子という名前の若い女性が先客として滞在しています。もちろん、ヴァーチャルの世界なので、穣一、今日子、ともに“Reality”の世界にいるのはアバターなのですが、どうもこのアバター機能は、2014年の本作公開当時のVRアバターよりも一歩も二歩も技術的に進んだもので、例えば、アバターの中の人の顔写真を簡単にリアルな3Dモデルとしてアバターに反映できたり、異言語間のコミュニケーションを、自動翻訳機能を通じて行うことができたりしちゃいます。

 突然、穣一に対して中の人の正体をバラした今日子は、あろうことか、彼に対して「あなたの今夜を私にくれませんか?」なんて申し出を彼にします。いくらVR世界の中の出来事とはいえ、50歳という年齢設定の穣一に対して、うら若き女性からのこんな申し出は、ほんとにもう“あろうことか”なわけです。けしからんわけです。うらやまけしからん。

 そんなこんなで、私たちは、奔放で明るい女子に振り回される中年男子の視点を中心に据えて、そんな二人が少しずついちゃつくようになっていく姿をしばらくのあいだ見せつけられることになります。

 ところが、急展開を見せるのが物語の最終盤。一夜をホテルで共にした二人。先に目を覚ました穣一がプールから戻ってみると、今日子の姿が消えています。ありがちな展開といえばありがちな展開ですが、そこは娯楽映画とはだいたいそういうもの、と飲み込んでしまえば、エンドクレジットが流れ終わる最後の瞬間までしっかりと楽しむことができます。なぜなら、本作とタイトルを同じにする主題歌、MountiesによるTokyo Summerが余韻に浸る鑑賞者の心にぶっ刺さるから。“Hazy like a Tokyo Summer”という歌詞が印象的なメロディとともにリフレインされるこの曲と本編のストーリーの親和性は抜群で、この点については新海誠作品とRADWINMPSによる劇伴が生み出すシナジーに匹敵するといっても過言ではありません。穣一にとって、今日子は確かにそこにいた存在でありながら、hazy(ぼんやりとした)存在であることを、ちょうど舞台となった夏、しかも日本の夏に掛けて歌われていることが、日本人としては少し嬉しく感じられるではありませんか。

 あらすじ的なものの紹介を終えたところで、ここで個人的な感想を少しだけ。まず、本作に関する製作者による正式なコメントはでていませんが、本作がシェイクスピアの『真夏の夜の夢』をモチーフにしているのは明らか。原題で言うところのMidsummerは、実際には夏至を意味するため、本作の舞台が8月となっている部分に関しては深くツッコまないこととして、『真夏の夜の夢』に登場する妖精パックが、花の蜜とキューピッドの矢の魔法から作り出した媚薬(これには目を覚ましてから最初に目にした者に恋をしてしまう効果があるという設定)を妖精の女王ティターニアの瞼に塗りつけて、ティターニアがありえない人物に恋をしてしまう、という構図はまさにVRゴーグルを通して恋愛模様を描き出す穣一と今日子の姿そのもの。
 それ以外にも、ピーターパンに登場するセリフや、穣一が今日子とプリクラを撮影する際に、二人の姿を『美女と野獣』に準えたりするなど、中世イギリスや中世フランスの雰囲気がそこかしこに漂う作中の様子は、近未来的な世界で起こる物語の幻想性を高めるのに一役買っていると思います。そうした幻想的な雰囲気が、実際にはヴァーチャルでも何でもなく現実に存在するナイアガラの滝の様子や、ゲームセンターの様子などをあたかも仮想空間上のものとして鑑賞する人に印象づけるテクニックはさすがと評価してもよいのではないかと思います。

 物語は一見、悲しい終わりを迎えるかに思われますが、具体的な描写は一切なく、鑑賞者の主観にその結末が委ねられている部分も個人的には評価したいと思います。

 シェイクスピアの『真夏の夜の夢』だけではなく、もしかすると松任谷由実の同名楽曲の世界観も掛け合わされているのかもしれない、なんて想像すると、異文化meets日本文化な感じを味わえる、日本人のみに許された特権的な楽しみ方もできるところが本作の素晴らしいところ。機会があれば、できるだけ暑い夜に本作を鑑賞されることを強く推奨して結びとしたいと思います。

おしまい

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?