急ぎ鳥、参上!🕊 𓂃𓈒 𓂂𓏸
今日からメールの定型文“取り急ぎ”が“急ぎ鳥”に変更されるらしい。よくわからないがなんだか楽しそうだ。他の慣用表現についてはどうなのだろう?
そんなことを考えていると、鞄の外ポケットに入っているスマートフォンのバイブレーションが、持ち手を伝って業務メールの確認を催促してきた。
「なんだこりゃ」
社内専用メールアプリを起動した私は、思わず声を上げた。
そこには、見慣れた無機質な件名表示は見当たらず、"至急"という見出しの隣で、丸々と太ったヒヨコのアイコンがかわいらしく飛び跳ねていた。
我が社では業務上、秘匿性の高い情報を取り扱う機会が多いこともあり、社内メールには独自開発したメールアプリを使用している。一見すると何の変哲もないこのメールアプリなのだが、開発担当者の説明によると、通常のメール通信用プロトコルを独自に拡張することで、高水準のセキュリティを確保しているそうだ。
メール本文を確認しようと件名をタップしようとしたその瞬間、社内専用のビデオ通話アプリに着信があった。再び見慣れない通知表示。今度は、呼び出しを知らせる画面の中心でペンギンが忙しく駆け回っている。やや戸惑いながら通話ボタンをタップすると、聞き慣れた声がいたずらっぽく話しかけてきた。
「へへ、どうです?」
システム開発部チーフ設計者の鳥井。昨年、アメリカの大手企業から我が社に転職してきて、以降、我が社でその才能を遺憾なく発揮している才女だ。ただし、その子どもじみた振る舞いを除けばの話だが。
「何が、"どうです?"なんだ」
私の何をそれほど気に入ったのか、彼女はことあるごとにこうしてビデオ通話を架電してくる。
「先輩、知らないんですか、急ぎ鳥のこと?」
「知っているさ。だが、それと君からの連絡と何の関係があるっていうんだ?」
「私のヒヨコちゃん、見てないんですか?」
「見たよ。ペンギンもね」
「これ、絶対に天下獲れますよ」
彼女の話は、私にはまったく要領を得なかった。
「どういうことだ」
「私、閃いちゃったんです。昨日、罪深い深夜の豚骨ラーメンを食べながら、すごいこと」
「だから、何をだ?」
「鳥のアイコンを使って、どのくらい急ぎの要件なのかを直感的に伝えることができたら、便利だなって思いません?」
なるほど、そういうことか、と私は合点がいった。彼女がかつて所属していた会社では、ランチタイムの雑談で出たアイデアが、退社時にはかたちになる程のスピードで無数のアプリが開発されていたという。つまり鳥井は、緊急度の目安を鳥のアイコンで表示することを昨日の深夜に思いつき、早々にその機能を社内アプリに実装すると、職権を濫用してアプリの強制アップデートに踏み切ったというわけだ。
「へへ。すごいでしょ?」
「まぁ、おもしろいとは思うよ。でも、これで天下が獲れるってどういうことだ?」
「先輩、まだ気づきませんか?この、緊急度を鳥のアイコンで表す仕組みで特許を取得しちゃえば…」
「なるほど、おもしろいな」
「でしょ?鳥井ちゃん大勝利、ってわけです」
驚くことに、彼女の目論見はものの見事に成功を収めることとなった。タマゴ、ヒヨコ、ペンギン、ツバメ、ハヤブサの5段階に緊急度を仕分けして表示する仕組みが、日本のみならず世界各国で採用されるという、あの会話をした当時では想像もできなかったような事態が今、私の目の前で起きている。そして、協議の末、この仕組みに関連する知的財産権の保有権を会社と共有することになった鳥井は、一躍、上位の世界長者となった。
彼女の遊び心は、世の中のちょっとした傾向の形成にも影響したようだ。例えば、仕事でもプライベートでも、特に急ぎの用事でもない件にハヤブサを指定する者を指して、ハヤブサおじさん/おばさんと呼称したり、どんな件についても無難にペンギンを指定してしまう者がペンギンちゃんと呼ばれるようになるなど、いくつかのビジネス隠語が生み出されたのだ。
"取り急ぎ"が"急ぎ鳥"に変更されるなど、まったく馬鹿げたことだと当時は思ったものだったが、人の世では何が起こるのか想像もつかないものだ。次期オリンピックでは、「的を射る」の誤用である「的を得る」がモチーフとなって、最大で90m離れたところに設置された的をいかに速く持ち去ることができるかを競う競技が正式種目として採用されるという。
言葉は生き物であるとは陳腐な表現だとはいえ、こうも目の当たりにさせられることになろうとは、などと考えながら歩道を歩く私の耳に、街頭に展示さたテレビからこんな言葉が聞こえて来た—
「続いてです。イギリスのオックスフォード大学出版局より、同局が来年発刊する改訂版オックスフォード英語辞典に、日本が生み出した和製英語、"ボリューミー"が正式に掲載されることが発表されました」
おしまい
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