『日本文化は“素材病”に取り憑かれている!』を読んで思ふ

 本稿は、#文サお茶代 を主宰する、みんなのだーにゃこと脱輪さんの投稿『日本文化は“素材病”に取り憑かれている!』についての読書感想文です。当該記事が音声ベースの発言のまとめテキスト形式になっているため、コメンタリー形式でお届けしたいと思います。いざ。

・日本文化は“素材病”に取り憑かれている!
「素材の味のままで·····」という発想が、男性のすっぴんショート信仰や処女信仰にまで通じ、感覚(感じたまま自由に····)重視=技術軽視の傾向と結び付きつつ、王道エンタメへのトラウマを形作っている。

 素材病。なるほど、なかなかの意味を持ったキーワードである。
 実際、ぼくも女性のメイクについてはすっぴんorナチュラルメイク派だ。なぜなら、バッチリメイクがキまっている女性のおでこやらほっぺにチュウをして「メイクが落ちちゃうでしょ💢」と若い頃から怒られ続けてきたからだ。それに、ファンデーションや口紅は、モノによってはまぁまぁ苦い。いちゃいちゃに関しては、ラテン系スタイルの信奉者であるぼくにとって、メイクが、というよりは、メイクが落ちてしまうことを気にする女性はそこそこ取り組みづらい相手であり続けたのである。
 処女信仰については、男性としての健全なエロさを追求するのであれば、せいぜい20代前半のうちには捨て去ってしまった方がよいと個人的には考えている。食肉牛で例えればわかりやすいだろう。一般的に肉やサシの色は未経産牛(処女牛)の方が美しいと言われるが、旨みがあって美味しいのは経産牛(出産済みの牛)だと評価されることが多い。初々しかろうが見た目がよかろうが、まずくてはどうにも始末が悪い。これが何についても名より実を取りがちなぼくの処女信仰に対する結論である。夢見る男子じゃいられないのである。
 感覚重視/技術軽視に関しては、そう簡単に単純化できる問題ではないと考えるため、ここでの言及は控えようと思うが、述べられんとしていることはおおよそわかる。

・その結果、我が軍(日本)の「誰もが認める王道エンタメ映画」が三谷幸喜と山崎貴で、「“社会派”映画」が是枝裕和と河瀬直美じゃトホホ·····
鬼畜米英にはフィンチャーもPTAもリドリー・スコットもいるし、韓国には王道×社会派ポン・ジュノがいる。
ウチらの国は如何にして敵国と戦うべきか?

 ぼくは三谷幸喜作品、なかでも彼の映画処女作「ラヂオの時間」がかなり好きである。山崎貴なる映画監督の個人名は知らなかったが、Wikipediaで監督作を確認してみると、「アルキメデスの大戦」、「永遠の0」、「寄生獣」などは視聴済みであり、いずれも大して楽しむことはできなかったことを思い出した。是枝監督の作品については、「誰も知らない」を鑑賞した程度で、かなりの話題になった「万引き家族」でさえ見ていない。ちなみに、「誰も知らない」はとても印象に残っている作品である。もちろん、いい意味で。河瀨直美さんについては、せいぜい、ぼくが愛するJUDY AND MARYのラストシングル「PEACE」の映像監督を務めたことと、少し前にスタッフに対するパワハラをキめた事実程度のことしか知らない。
 他に名前が挙がっている海外の監督については、名前だけは聞いたことがあるし、おそらく彼らの作品を見たこともあるのだろうけれど、そもそも誰が何を監督しているかを気にして映画を鑑賞するということがないので、せいぜい、監督名が前面に押し出された映画作品の販促で、ぼくが「おっ」と思うのは、スピルバーグ監督くらいのものである。
 結局、よくわかんないことについては語れないし、そもそも海外映画作品を迎え撃つ必要があるのかもよくわからないので、このセクションについての言及を控えたいというところに着地する。ごめんなさい。

・いいかげん、ウチらの国は“素材病”から脱却して、火を使い(他者へのお・も・て・な・しではなく自己の肉体性=エゴと向き合い)、調理することを覚え(=技術)、文句なしにおもしろい王道エンタメ映画を作るべきではないのか?(=素材がどこ産で〜とかじゃなく、とにかく食って旨い料理を出してくれ!)

 ちょうど料理に例えられた表現がなされているので、それに合わせて、ぼくなりに整理した類型をここで紹介してみる。素材と調理という観点で見てみると、
①良い素材のみで勝負!(刺身、焼肉、野菜、果物など)
②良い素材と工夫/調理で勝負!(寿司、日本酒、ワインなど)
③そこそこの素材で工夫/調理で勝負!(肉牛のドライ・エイジングなど)
なんていう3パターンに大きく分けることができると思う。
 おそらく編集長が大切にしようよ、と主張しているのは、②のパターンに当てはまる場合なのだと思う。素材の見た目や本来の味任せに適当に調理するのではなく、それを最大限に引き出した作品をつくろうぜ。素材だけで満足するに留まるのはもったいないじゃないか。…と。
 その部分については概ね同意することができるが、一部、ぼくが嫌うパターンがある。それが、せっかくの良素材に余計な工夫や調理を加えることで、その良さをダメにしてしまうパターンである。
 例えば牛肉のドライ・エイジング。そもそもドライ・エイジングとは、肉質の硬い北米産の牛肉を、なんとかおいしく食べることができないかと考案された高度な肉の熟成技術である。ところが最近では、せっかくの日本の良質な国産牛をわざわざドライ・エイジングによって長時間熟成させ、「これ、そのまま食べた方がおいしかったのでは?」となるような品質にされてしまっている哀れな牛肉がそこかしこで散見される。
 牡蠣のコース料理も同様だ。水揚げされたばかりの牡蠣は、生で食べるか、炭火で焼いただけで食べるのが一番おいしいに決まっている。それをグラタンだのジュレ仕立てだのと余計な手間を加え、販売単価まで上げて提供してくる飲食店があるのだから恐れ入ったものである。そんなものは、生食には耐えられない生鮮品質の牡蠣を使えば事足りる。料理とは、あくまで素材の良さを引き出し、弱点を補うためのものであるとぼくは信じているからだ。

 これは映画でも同じことだろう。題材やテーマはよいのに、演出過剰にしてしまう、流行りのアイドルを起用してしまう、不似合いなアーティストの曲を主題歌にしてしまう…こんなことは珍しくない。このような事象は、商業主義/拝金主義的な思想が日本の映画界には浸透しきってしまっていることの表れともいえる。監督が撮りたい映画を撮影することができない、という状況をなんとかして改善しないかぎり、こうした状況の改善は困難なのではないかと思う。芸術性や物語性と興行的成功のあいだにカオス理論的な相関関係しか見られない日本の映画市場は、依然、発展途上の最中にある。あるいは、もはや健全な成長をほとんど期待することのできない状況に陥っていると評価してもいいのではないかと思う。おそらくは、映画人にとって現在の日本の映画業界は地獄のような環境なのではないだろうか。

・脱輪「結局戦後何十年経ったところでさー、ウチらの国の文化的な感性は、島田紳助的なイノセンスと峯田和伸的なイノセンスの2つに支配されてるわけよ。いつまで浪花節とょゎょゎ男性自意識語りなんだと(笑)でもこの2つを除外したら、ウチらの文化にはほとんどなにも残らないんだよ!(泣)」

 峯田和伸って誰なのか知らないけれども、"ょゎょゎ男性自意識語り"というのはよくわかる。具体的なアーティスト名を挙げることはここでは控えるが、「なんて僕はダメなんだー」「こんなに君を好きなのにー」みたいな歌詞が多すぎる。もしも、向かいのホームや路地裏の窓、交差点や夢の中、あるいは旅先の店や広告の隅に探している彼女がいたとしたら、それはきっと雨宮リカという名前の女性だろう。

・よくよく考えてみれば海外に“社会派作家”という肩書きはない。それは味付けに過ぎないから。
・結局は人と人との信頼関係。「この人は絶対に俺を楽しませてくれる!」という期待を、作品を介して、なによりも作家自身に対して抱けるかどうか。
その点、我が軍にはどーにも信用が置けない····

 ”映画監督に対する信用が置けない”、という話だと、ちょうど先日、文学サークル”お茶代”メンバーの、ろくじさん(@rokuji)とこんな話をしたところだ。それはある時、漫画評論家のいしかわじゅん先生が、「浦沢直樹という漫画家は信用できないんだよ。だって彼は、MONSTERを書くためにYaWaRa!を書けちゃう漫画家なんだ」というお話をしてくれた、というものだった。
 おそらくこれは映画界でも同じことだろう。監督自身に撮影したいテーマがあったとしても、それが一般ウケしそうにないと、すなわち、お金を生み出さないと出版社なりスポンサーが判断したとしたら、費用はどこからも出てこないのだろう。高齢者よりも流行りの若手アイドル俳優を主役に、あるいは、既に人気のある作品を原作に、といった具合に、一定の興行的な成功を見込むことのできるものしか作らせてもらえない、そんな状況があるのではないだろうか。
 浦沢直樹は、描きたいものを描くために、まずはウケるものを描いた。それだけの話なのではないだろうか。たぶん、同じ立場であれば、ぼくならそれはできると思うけれど、そうはできないという人が少なからずいるということは想像に難くない。

「我が軍」「敵国」とか言ってんのは、こないだふうらい牡丹 @Button_furai さんと話してる時に、“愛国者としてハリウッド映画作家を迎え撃つ”遊びを思いついて、「〇〇は我が軍の✕✕で倒せる!」「〇〇は王道作れる上に社会派もやれる強敵、✕✕と△△の二人がかりで刺し違えよう!」とか不穏当なことを続けてるからです(笑)

 この部分については、編集長の言葉遊びなので、特に言及することはない。

作品って料理と一緒で、
受け手は「なんでもいいからうまいもん食わせろ!」
作り手は「腕によりをかけて作ったから味わって食え!」
と頑なに言い続けていかなければならない。
その正常な交通こそが批評なんです。
マズいならマズいと言わなければいけないし、味に自信がないなら出すべきではない。

 レストランのオーナーシェフとその客であればこの関係は成立すると思うが、残念ながら映画の製作者はそう簡単に見込まれる興行収入を前借することはできない。「ほんとはこんなもの撮りたくなかったんだよ…」なんて言葉があちこちで漏れ聞こえてきそうな日本の映画業界だからこそ、映画を愛する人たちが、綺麗ごとではなく、現実的かつ実現可能な打開策を提示し続ける必要があるのだと思う。

 ちなみに、ぼくはそこまで日本の映画界に愛着はないし愛情も注ぐことができないので、「みんながんばれ」の精神で外野から応援しようと思います。

おしまい

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