卒業する、ということ
※本投稿は文学サークル「お茶代」の企画参加記事です。最後まで無料でお読みいただけます。
窓ガラスを壊して周った果ての、支配からの卒業。
卒業できない恋もある。
そして、今日は私の my graduation。
「卒」とは終えることであり、「卒する」と書けば死ぬことを表すように、ぼくたちは人生を通じて様々なものを卒業する。
今回、「卒業」という言葉を聞いて、ぼくの頭に真っ先に浮かんだのが、女流プロ雀士、二階堂亜紀のこんな言葉だった。
これは、いつかのパチンコ情報番組での発言だったのだが、ぼくは、ここに勝負に関するひとつの真理を見た気がした。
また、これと同時に思い出されたのが、大学生の時に参加した、マイクロソフト社の会社説明会における、質疑応答でのこんなやり取りだった。
「なかったことにする勇気」を「卒業する勇気」と読み替えると、そこには、卒業するからこそ、次へと進むことができるという2次的な意味を見出すことができる。
この二つの例は、ぼくの価値観にとても馴染む。というのも、飽き性という生来の性格と相まって、何事についても、「成果は上々。こんなもんでいっか」と、他に興味を移してしまう傾向が、ぼくにはあるからである。
何かを良い状態のまま卒業することは悪いことではない。それが勝負事であればなおさらである。
麻雀はもちろん、企業の営利活動も勝負としての側面が大きい。そして、勝負事の理想は、勝ち過ぎないことである。勝ち過ぎると、相手の恨みを買うし、自身にも驕りや油断が生まれてしまうからだ。
また、うまくいかないことから卒業することも大切である。サンク・コスト(=sunk cost:回収不能になった費用)に囚われ、うまくいかないことから抜け出せないことがあるのは、何も企業に限った話ではない。
費やした時間やお金を無駄にしたくない、という思いや、現実を直視しない楽観的な観測が卒業を妨げることは、個人にとっても往往にしてあることだろう。
結局のところ、この類の卒業には本人の納得が必要なので、他人がとやかく言ったところでどうにもならないのだが、ぼくについて言えば、餃子もチャーハンも注文したのにラーメンを大盛りで頼んで、「大盛にしなきゃよかったな」と後悔することから卒業したいとは思っている。
おしまい
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