護身術論

 筆者、武道を嗜むこと少々。しかし、巷に流布する武道論に迷うこと多々あり。如何なる武道が良いのか、特に護身術の観点から、考察のために本稿を執筆する。

俊敏
 素早いこと、期を逃さぬこと、これは、ほとんどの武道において尊ばれることと見受ける。殴られるより先に動かねば傷つけられてしまうのは、当然の理である。
 しかし、武術でのハヤサというのは、100mを10秒以内に走る、という類ではないはず。勿論、逃げ足は速い方が良いが、100m逃げるだけでは十分とはいえないし、逃走経路も直線でない場合もあるし、よって持久力の方が重要ともいえる。だが、武術的なハヤサとは、瞬発力であると考える。瞬発力には、動き出す早さと、動く速さとの、両方が含意される。
 武術の早さは、相手が動く前に此方が動き出して、相手の動きを止めてしまう、という類の早さである。機先を制するのである。その動きも速ければ、此方の動きを相手に止められる心配は少なくなる。物理学的に、力の大きさは、速さの2乗に比例する。
 俊敏であることは、初心者だろうが達人だろうが重要視して然るべきものである。

頑強
 頑強さについていえば、筆者はこれを否定しないものの、いまいち決定的に重要だとは言いがたい。諸法無常。形あるものは全て壊れてしまう宿命にある。例え鋼のような肉体を手に入れても、ライフル弾を打ち込まれては絶命必至である。どんなに頑強なものも、それ以上に頑強なものによって容易に壊されてしまう。
 また相手が毒針を仕込んでいた場合を考えれば、やはり頑強な肉体も頼みにならない。
 強さ、というものも同類で、どんなに強い者も、それ以上に強い者によって滅ぼされてしまう。故に、頑強さに至高の価値を置くことは、危ういことと考える。

流動性
 頑強さよりも流動性の方が尊い、と筆者は考える。流動性は、回避性能に直結する。どんなに強い攻撃も、当たらなければどうということはない。理想論だが、しなやかに動き、相手の攻撃を全て躱せば、決して傷つくことはない。故に、武道者は頑強さを指向しても、流動性を捨ててはならない。

気体
 実体を持たないことが最も理想的である。相手にとっては、殺す相手がいないのだから、どうすることもできない。こちらは決して傷つくことがない。護身の完成である。
 しかし、鍛錬して徐々に肉体を気化させようと志して、徐々に肉体を脆くしては良くない。したがって、頑強かつ流動的な肉体を殻として、その中で、気体の本体を形成する、という方法が考えられる。もはやオカルトであるという批判は受け入れるが、完璧な護身というものを考えると、それしかないではないか。
 ここまで成し遂げれば、護身術などもう必要ない。では護身術それ自体を学ぶ意義が無いのかというとそうではなかろう。気体になるまでの間、身を守る術として十分に価値のあることと思う。
 死ねば同じことと考える読者もあるかもしれないが、筆者は転生を、論理的帰結として信じており(過去記事参照)、死ぬ=生まれ変わることは、これまでの修行の成果を無に還す点で、忌むべきことと考えている。同じ存在を保持したまま、その存在のあり方を隙の無いものにしていくべし、というのが結論である。

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