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KOTOBA SLAM JAPAN 2023 に参加して思ったこと

昨年に続き、今年もKSJの全国大会に出場することができた。初めてKSJに参加した昨年から感じていたことが、ようやく言葉になりそうなので、書き残しておきたい。
 
水準というものを無視してよいのならば、ぼくは長きにわたり「言葉を書く」ことに親しんできた、といっても問題ないと思う。20年以上、ライターという職業で生計を立ててきたし、しばしば、創作した文章をなにかしらの場で発表してきた。
 
そうした経験を踏まえて実感したのは、「言葉を書く」と「言葉を発する」という表現方法、また「書かれた言葉を読む」と「発された言葉を聞く」という体験には、想像していた以上に大きな隔たりがあるということ。なんとなく、似たようなものだろうと安直に考えていたのだが、まったく違っていた。
 
もっとも驚いたのは、「書く」ことはできるのに、「発する」ことのできない言葉があることだった。書いているときや読み返しているときは「これでいいだろう」と思っていても、いざ読もうとすると、「これは口にできない」と躊躇してしまう。そういうことが、しばしばあった。
 
その躊躇を引き起こすものとは、いったい何なのだろう。KSJに初めて参加した日から、ずっと考えてきたのだが、昨日ちょっとだけ尻尾を掴んだ気がする。それは「本人性」と表せるものではないか。

「書く」ときや「読む」とき、人は「本人性」から離れることができる。しかし、「発する」ときや「聞く」とき、人は「本人性」から離れにくい。前者は「言葉がその言葉自体によりつくられる世界だけで閉じられている(ように見える)」のに対し、後者は「言葉がその言葉を発する人や場や時に向けて開かれている」という言い方もできるように思う。

芸人の世界には、その芸人ならではの個性や長所を表す「ニン」という言葉があるそうだが、ここでいう「本人性」とは恐らくそれと同じもの。外形や服装だったり、表情や声色だったり、リズムや節回しだったり。「書く」ときや「読む」ときは、それらを頭の中で自由に設定・変換できる(しやすい)が、「発する」ときや「聞く」ときは、それらは「本人」に帰属するものから離れられない(離れにくい)。
 
演劇やコントのように自分以外の人間を演じる場合でも、それは同様だと思う。どれほど巧みに演じられたとしても、「〇〇によって発せられた言葉」であることからは離れられない。たとえば、普段は大阪弁で話しているぼくが、標準語で語る原稿を書いたとする。黙読するときは違和感がなくても、それを人前で声にして発すると、どうしても違和感が生じてしまう(発するときも、聞くときも)。実際、そういうケースはよくあり、その都度、ぼくは「自分自身が声にして発する」ということを意識して原稿を書き直した。
 
その意味で、「発する」には、「書く」にはない、一種の「制約のようなもの」があるといえる。ただ、だからといって「言葉を発する」という表現方法が不自由なものだと言いたいわけではない。「制約のようなもの」は、「表現をブーストさせる(補強する)もの」にもなり得るからだ。だからこそ奥が深いというか、「書く」や「読む」とはまた異なる面白味があると感じる。
 
とまあ、最後のほうはあまり考えがまとまってなかったけれど、今の時点で思うことは書けた。最後の最後(Respect さんま)に、昨日の自分自身の表現について振り返ってみると、「ちょっと笑いの要素を入れすぎたかな」と思う。「脱臼しながら展開していく詩」のつもりだったのだが、語り芸的な「くすぐり」がくどく、それが支障となって詩情を醸すべき部分の邪魔をし、結果、人によってはウケ狙いの小話に聞こえたかもしれない。あと、緊張したせいもあってライブ感が薄かったなー、など。原稿的にはまあまあ納得のいく出来だったのだけど。ほとほと、自転車を漕ぎながらチャックを閉めるのはむつかしい。