今夜きみの声が聴こえるの感想(雑記)

1日に三回も同じ朗読を聴くのは
しんどいかなと思ってたけど
三回目にふと
「まなか」は分裂症なのでは?と思ってから
集中が切れなくなった。

聴きながら、見ながら、考えながら。

最初
コージと祖母「だけ」
幽霊のパターンで見てたのに
「全員」がまなかの中での「登場人物」で
その中に現実が混ざってると思ったときに
「この物語」自体が怖くなった。

高校演劇で見たことがある
「他人の中で起きてる、目に見えないもの」
まなかは「なんでも平均点な」女の子じゃない

物語の冒頭から
「真ん中まなか」という言葉が出てくる

この言葉が「まなか」を縛り付けてるお陰で
祖母が死んだショックも
コージ死んだショックも
内側に作り出した二人のコピーが
「真ん中」に戻してくれる。

「まなか」は祖母が亡くなった時
その祖母のことをずっと思い出してたとおもう。
そうやって「祖母」を構築した。
話してくれた話、仕草、性格。
情報が多いから構築に時間がかかった。
「自分」に都合のいい「祖母」ではなく
「祖母」はこうだ、と。

コージが亡くなった後
力なく現れたまなかが
まばたきもせず前を見てる姿を見ながら
無意識に「コージ」を構築してるんだとおもった。

祖母がラジオの話をしているけど
何一つ思い出せないのは
情報が足りないから。

祖母がラジオを渡してきたのは
かつての記憶の再現。

ラジオから声が聴こえるの
「二人だけ」幽霊だった場合
まなかが寝てるときに「人格」として
コージが出歩いてる時
聴いたもの。(だから部屋にいるとは限らない)
タケダさんの独白は別の理由

ユーキ君(?自殺しようとした中学男子)のところが
難しいかも知れないけど
ラジオから声が聴こえる時はまなかが「寝てて」
「コージ」が動かしてること(或いは「マリ」)

「深夜に病院には入れないからドアの外で立ち聞きは出来ない(みたいな台詞)」
「まなかは」してないだけ。

「祖母」と「コージ」だけを
別人格として構築したとしても
平凡じゃない。

なおかつ
「自分に都合のいい人格じゃない」
或いは
「この人ならこうする」で編まれた人格。

無意識でも目で追うくらいに
コージが好きな「まなか」。

部活の話がないから
悪くいうと「コージ」のストーキングはしてそうだし
してるはず。

だから
「ユーキ君」も
「シズカちゃん」も
知らないわけじゃない。

心の弱い「まなか」は
「祖母」の死でクラスメートが心配になるほどの姿だった。
「まなか」は「祖母」を自分の中に構築した。
そうして日常に復帰した直後(祖母の49日の直前)
「コージ」の死をしった。

「祖母」の死を乗り越える準備が出来たときに
「コージ」の死が重なった。

まなかが耐えられるとは思わない。


接していた世界の最近の記憶から
「内側に」最低限の世界を構築した。

「身近の全て」か
「死んだ人」か。

どちらだとしても
結果として乗り越えられたのは
「真ん中まなか」の呪い。

自由に動き回る幻だろうと
内側の人物だろうと
「他人を再現する能力」

冗談として使われていた「演技力」に関する台詞

自分を平均(真ん中)と思うことで
飛び抜けた観察力・想像力・再現力が
全て内側の妄想の中で留まっていた。

大事な人の「死」によって
才能が内側に発露した。

自由なはずの内側の人格は
まなかの精神を「真ん中」に戻すように
動いてるように見える。

弱いし、馬鹿だと思ってるまなか自身が
「うっすら」とでも気付いてるそれらに頼らず
強くなろうするのが後半の物語。

思春期の皆の中で
起きてることの一つなのかも、なんて。



「祖母」が亡くなった時のまなかを
クラスメートは見てたのかもしれない。

だからコージの葬式のまなかを見て
触れられやしない。

「祖母」の49日前に
明るいまなかに戻った直後の
その姿を思えば
マリがずっとおどけて見えた理由がわかる。


素直に見るのも
「二人」が内側の人格だとみるのも
「登場人物全員」がまなかの中の住人だと思ってみるのも
収束点は一緒でも
苦しみ方が違うから
「朗読」ゆえの良さが最大限にあるシナリオだとおもった。

演者は
誰も「分裂症」だと思ってやってなさそうだから
世界観の自然さが
余計に怖かった

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