人が生きるということ

初めに

 この記事は真面目じゃない人間が人生について書いているということをよく理解してからスクロールしてください。構想とか練ってないから読みにくいかもしれません。


生きることの意味

 個人的にはないと思います。あったとして死ぬ時に、若しくは死んだ後に生きている人間たちが決めるものだと思います。生きている間にこれが生きた意味なんだと思っても、過ぎたらそれも変わってしまってしまうものだと思います。


 これって何かに似ていると思いませんか? 僕はゲームの環境を研究している時に似ていると思います。これは他の人はそれぞれ得意な、よく触れている分野に似ていると感じるはずです。
 単純に時が経てばその時の強かったものも淘汰されるし、また周りの環境が変われば強いものも変わる、所謂その時強いものをメタった結果環境が変わりゆくこともあります。
 メタの編成というのは、そもそもメタった対象が存在する前には存在しないわけで、これは研究が行われてAという強いものが出たから、それへのメタBが生まれるのです。
 この時Aは生み出されたとき最強です。でも研究によりその地位は失われます。


 生きる意味も同じように、存命の間にそれだと思っても未来では違うというのはよくあると思います。それは結局、時が進むにつれ自分の人生というものに対しての研究が行われているからです。
 だから僕は生きる意味は死ぬまで、生きた道が途絶えるまで分からないものだと考えます。


生きること

 前に述べたように生きることの意味は分からないものです。では、何をして生きているのでしょうか?ここで必ず1分間くらい考えてください。やっぱり考えなくてもいいです。



 色んな人がこの世の中、過去から今まで多様な生き方をして過ごしてきました。だから人間は決まって何かをして生きているわけではないのでは?これは違うと思います。人は皆決まって生きていく中で学んでいく。経験をして、それから学び、何かを修正する。それが人間がずっと行ってきたことだと思います。人は考える葦であるとよく言われますが、今言ってることは大体そんな感じです。
 だから過去に決定してしまった事実の意味を作るのは、今から未来までの自分です。無駄だった過去からでさえ学べば意味を作れます。何なら、無駄だったことの方がそれに意味を与えやすいと思います。


 では学ぶことで何を僕らはやっているのか?それは争いだと思います。学ぶことで色んなものを発達、効率化など様々な変化を起こし過去にあったものを淘汰させていく。学校では、学び、知識を得てそれの定着度を競う。社会では社外または社内での争いになります。生きることの終着点は争うことに行き着くと思います。そして、競うことは決して他人だけでなく過去の自分を含む人が生み出したものも対象に成り得ます。



 これまで、過去にあったものはその時代において学ぶことにより生み出されたものであるから、理にかなったものだったと思います。ただし時代が進めばそれは不条理なものになります。過去にあった条例だとかなくなったものは今考えるとおかしなものばかりです。歴史で習ったものは、習っている当時はわけわからず覚えるのに苦労しましたが、その時の世の中の理が分かっていたらもっと簡単に覚えられたんじゃないかなとか思います。知らんけど



生きたこと

 自分は正直、この学び続けるというループに疲れました。ゲームに籠っても、他人と関わってしまえば競争が99%発生します。人と関わるというのはそういうことです。人と関わらなければ、この世に生まれた意味が作られなくなる。どれだけ純粋に生まれたとしても、この結末は決まっていたんだと思います。








 だから僕は小学生がとても素晴らしい存在だと思うのです。これから先、必ず色んなことを学び、知って、いずれその無垢さが汚れ、大人になるんです。でも、まだそのことを知らずに無垢でいる。時間が不可逆であるその事実が如何に大事なものかも知らず。僕らは彼らより長い時間を殺しているし、それらの意味を作る時間も、生きている時間の可能性も少ない。逆に彼らの殺した時間の意味は、生きる意味は無限大にある。だから小学生は最高なんだ。


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