どどたん先生の実況中継:病理診断のトレーニングについて
病理診断の研修の厳しさを語る!!
イマドキの病理医に必要な資質をどどたんせんせが語れるかはさておき,一言でまとめると内科医的な要素>外科医的な要素でどちらも必要といえる.実際問題としてどちらかが極端にかけたら,病理医としてやっていくのはかなり厳しい.
まあ,実際そういう資質のある人が病理にやって来るかどうかはさておき,求められている人材というのは得てしてそういうもの.よく昔言われていた,対人的に難しいから病理が向いているというの今の流れからというと適切とは言い難い.
それはなぜか.これだけチーム医療が叫ばれているわけで,現代ではいりょうげんばにおいてはコミュニケーションを取ること・取れることが大前提といえる.もちろん過去はさておきね.いきなり残念な話だけど,コミュニケーションに難がある人に適性のある職は医療業界にはもはやないと言っても過言ではないし,どちらかというと病理の方が向いている,という訳でも決してない.ここは clear にしておきたい.
コミュニケーションが取れないから病理?はダメ
これは表向きの話でもあるし,実際でもある.病理は患者さんと触れないからいいだろうという意見をする人は大抵病理と関係ないか,病理の業務自体をきちんと理解していない.掃除の人だって!コミュニケーションが取れないと仕事にならないし,患者クレームの温床となりうる.
ただ一つ言っておかないといけないのは,自分はコミュニケーション能力がないと思っている人の大半は普通にコミュニケーション能力があるということ.これを勘違いしている人は相当数いると思う.問題としているのは病的とも言える人のことで時間がかかっても打ち解けることができるのであれば,多くの場合には問題ない(慣れというものが大抵は解決してくれる).
あと個人的に厳しいなと思うのは自分が必ず正しいと思っていて,信念を変えない人.もちろんそれが正しくて偉大な業績を生み出すこともあるけど,一般的な素質としては NG と言わざるを得ない.まあヘテロな集団の方がいいのかもだけど.
まずは切り出しのトレーニングから
さてその中でどういうトレーニングをするかというと,系統だったトレーニングをしているところはあんまりなくて,まずはとりあえず消化管の切り出しから始まる.ここでメスの使い方や,切り出しという考え方を学ぶ.大抵一度は指を怪我する.まあしょうがない.
* 切り出しとは.例えば提出された手術検体をそのまま顕微鏡で除くことはできないわけで,何らかの処理が必要.まずは大きな検体を細かく切る必要があり,その作業を切り出しという.千切り,みじん切りにしてよいわけではなく目的を持って検体を切っていく.
そこで基本である消化管と婦人科の手術材料をある程度切り出しができるようになったら徐々に切る検体を増やしていく.そしてしっかりとメスがしっかりコントロールできるようになったら,子宮頚部円錐切除検体と膵頭十二指腸切除検体を切って,それがきちんとできるようになると,切り出しはまあとりあえず大丈夫でしょうとなる.
もちろんねじれたクローン病や複雑にねじれた大腸癌をオリエンテーションを含めてきちんと切り出しができるようにならないといけないけど,現実的にそこまで到達できていない先生もままいるから,そこは本人のやる気次第とも言えるか.
切り出しのトレーニングの難しいところ
切り出しの難しいところは,まあ当たり前なんだけど,時代とともに臨床の進歩とともに求められるものが変わってくるので,それに応じて適宜変更や追加を加えないといけないこと.例えば術前化学療法を行えば,治療効果判定ができるようにある程度の範囲は作らないといけないし,新しい術式や診断技術が開発されれば,切り出し方もそれに沿った形で進化していく.
未だに大腸癌を十字している人がいてびっくりしたけど,アップデートしないといけないのは病理であっても全く同じ.よく定年後でも病理の知識は長く使えるから定年後のバイトがしやすいなんて話もあるけど,イマドキだとそれは無理と言わざるを得ない.
切り出しのトレーニングの難しいところは複雑な症例はその分切り出しも複雑になるのと,不十分だと追加切り出ししないといけないとところとかかな.レジデントのときは疾患概念自体が若干曖昧な状態で切り出しをすることになりとてもストレスがある.
裁量があるようでないことが問題
しかも多くの臓器や疾患では,何個切り出さなくてはいけないというルールはないので,完全に裁量になる.つまり,決まった数というものが存在しないので,少なくても多くても怒られるしで,上司の言う塩梅というのがなかなかわからなくてほんと困る.
さらにモノによっては,例えば乳腺なんかそうなんだけど,乳管内進展なんか見てたら軽く100個を越えることがある.標本を作る技師さんも大変だろうが,見る我々も辛い苦笑
しかも大抵は上司が丁寧に教えてくれるような余地はないから作る個数は全体的に多めになってしまう.すると見る標本も多くなって全体的にオーバーワーク気味になる.自分で自分の首を締めていることになってしまう.
どこを切るかも知識と経験がものをいう世界
もう少し切り出しについて語ると,模擬授業でもやったと思うけど,切り出しをきちんとしようとすると,かなり深く知らないといけない.表面的な理解でも切り出しは出来るんだけど,難しい特殊な症例だったりした時に瞬間的に終わる.切り出しの多くは不可逆的と言える.ちょうど,この記事に似ている.
終わるというのはつまり,検証が不可能になるということ.穿孔があったとしてその面がうまく出せずに,ブロックを削り込んでしまうともう組織学的に証明することは不可能なる.しょうがないし,本当にどうしようもないからしょうがないねって言うんだけど,検索出来ないから本当はダメ苦笑
標本を見るのも大変
組織学的な検索のトレーニングも難しい.そもそも病理を回る人たちが持っている病理の知識って学生の時に毛が生えた程度
であれば御の字で,そもそも病理の授業すらまともに受けてない人が多いし,病理の成績が悪い人が多い印象.そんなんで病理医によくなろうと思うなと思う
ことは全くなくて,それでも病理医になりたいというのは病理診断という分野がそれだけ臨床の中で重要な位置を占めていてかつ魅力的だということになるんだろう.
まあそんなこんなで病理学はおろか,基本的な組織学の知識もあやふやな状態で標本を見ることをスタートするわけで,どどたん先生は卵巣間質を見て,これはタチの悪そーな癌だなーと言っていたくらいだからまあそんなもん.
なので,多くのレジデントたちはそもそも正常構造を殆どわかっていないのに,病的な状態について診断せよ,という無理難題を課せられるというつらーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい状態が待っているのである.
しかも全臓器で同じことをしなくてはいけない.そういうわけで結構最初から中盤くらいまでは上司にベッタリつかないといけないから,上司が優しい人でないときのストレスと言ったら半端ない.しかもその上司はかつて病理医は対人関係で難がある人がなる診療科だった時代の人が多いから,デフォルトで対人関係が難しいというお墨付き.
病理診断 ≒ 知識と経験
病理診断のトレーニングが難しい理由の一つが,そもそも病理診断自体が知識に大きく依存しているので,原則的に経験が豊富であればあるほど診断精度が高くなるということ.なのでビギナーはそれだけで相当ビハインドと言える.よっぽど勘が良くなければ,少なくとも数年間は上司を論破できない.
他の診療科は,,というと手先が器用な人であれば,おそらくオペがお上手ではない上司を比較的短期間で抜かせることはあるだろう.でも病理の場合はほぼイコールで知識の積み重ねになるため,それが難しい.でも逆もまた真なりで,きとんとコツコツ積み重ねれば,ベテランだろうがなんだろうが突き放すこともできる.
パラドックスの仕事環境
もう一つは評価されていない割に実地臨床の中で非常に重視されている,ということ.特に臨床医の能力が低ければ低いほど,病理診断に依存している割合が大きくなる.だからそういう臨床医は病理医をもっと高く評価するべきだけど,能力の低い臨床医には病理医の意義が分かっていない人も少なくない.
一方で能力の高い臨床医ほど,病理医のことをきちんと評価していることが多い印象.我々はしばしばきちんと臨床診断をしている臨床医に診断面で依存することがある(すなわち compatible with)が,そういう臨床医ほど我々に対して肯定的な印象を持っている.
そういう paradoxical な環境下で我々は仕事をしているわけだが,一例一例治療方針や予後を決定づける重要な仕事とも言える.診断治療というのは decision making が重要な点であるが,病理診断は仕事自体が decision making になっている.
知らない,わからないが許されにくい環境
きちんとしたトレーニングをする,という前提で話をすると,我々は基本的に知らないということは許されないあるいは許されにくい環境にある(∵ 標本は動かない).診断をする際には時間制限はない(ようにみえるだけ)ので,納得するまで文献なりを調べた上で,診断をしている(ように心がけている).
だから非典型的な症例や,初めて見る症例は教科書を最低でも該当箇所を数冊は読み込んだ上で,記載が少ない場合は case report あるいは review を数編は探し,さらに鑑別診断を十分検討したうえで,診断を下している.なので 1 症例に数時間かけることもざらにある.
ただし,これは別にトレーニングに限らず,今でも普通にやっていることでもある.臨床の場合は時間切れになるか,診断的治療という選択肢もあるが,ある意味最終診断,確定診断を求められている我々は逃げ道が極端に少ない.
本当の意味で逃げれるのは臨床的に定義されている疾患ぐらいで,それでも,「臨床的にご検討ください」というコメントをするのであれば,なぜこの病変が病理学的に診断がつけられず,なぜ臨床的に検討しないといけないのかを,疾患概念や診断基準を含めて review して丘無くてはならない.
はっきりいうとここまで真面目にやっていない人も少なからずいることは重々承知しているが,それでもきちんとしようとするのであればここまですべきだと思う.そうすると年間 1500 から max 2000 例程度が限度.
病理診断という作業は言語化しにくい要素で溢れている
病理診断には言語化しにくいような判断をするときがあって,アルゴリズムでは落とし込みにくい,ある種の勘で診断することがある.鑑別診断自体は教科書を見れば一応は書いてあるけど,でも実際は症例ごとにバリエーションが結構多く,掲げるべき鑑別診断は異なっていて教科書通りには行かない.
深く,広く,大量に
その際に頼りになるのが,臨床情報を読み込んだ上で組織像を検討し全体像を把握した上での大局的な見方.あるいは普段の症例とは何かが違う,と気づける感覚.これはすぐすぐに養えるものではなく,個々の症例に対して真摯に取り組んだ積み重ねで身につくものだと思っている.
珍しい症例をたくさん見て経験を増やす,と同時にありふれた疾患のバリエーションをたくさん見る.どちらも重要な経験.ここらへんは臨床医と共通な部分もあると思う.普段の症例とはどこかおかしい,と気づけるためには日頃からありふれた症例に対してきちんと丁寧に評価していないと難しい.
これらの言語化しにくい,スキルを養成するのに時間が掛かるし,それが全臓器に渡ってしかもそれぞれ専門家がいる.全てにおいて perfect は難しいのだけれども,それでも合格点をもらうためだけでもかなり大変なことは確か.
目の前を通り過ぎる百例よりも丁寧に診断して,それでいて症例数を大量に触れるという広く深くを実践しないといけないというかなり負荷のかかるトレーニングが要求されているとも言える.
病理診断のトレーニングの難しさというのは verbal,というかテキストベースの知識が大量にあるのに加えて,non-verbal のスキルも要求され,知識とスキルを総動員しながら全力で診断するレベルまで到達しないといけないことにある.
大学院に入ったら...
大学院に入ったら入ったで悲惨ではある.トレーニングが断片的になってしまって,よっぽど優秀な人でない限りいつまで経っても中途半端なトレーニングになって,出来るようにならない.
結論からすると少なくともトレーニング中はその負のスパイラルから抜け出せることはほとんど無くて,あっまた間違えを指摘されてしまった!を何度も何度も繰り返してそれなりのラインに到達する.というか押し出されると言った方が適切ではある.
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