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「口うるせぇカミナリ親父で在りたい」


色々あるもので、僕は最近よく怒ります。

そして生まれてこのかた少々言葉が荒っぽいもんで、
宮城出身の親父の「てやんでぃ」的な口調と、
地元埼玉の「〜だんべ」的な方言が混じり、

怒った時なんかは、顕著に出てきがちです。

僕は今まで怒ることは良くないこと、
みたいに、どこかで抑制して大人ぶっていることが
正しい気がして生きてきました。

それは子どもの事から、怒鳴る親父を怖がっていたり
自分自身も怒りやすい気質から、問題を起こしてきた経緯があり、

「怒りを露わにする人」への抵抗感というか、自分への罪悪感も伴い、抑えてきたのだと思います。

でも僕にはもう一つ、対になる性質が伴っている事に最近気が付き始めました。

それは「正義感」みたいなものでした。

「それはおかしい」
と感じるセンサーが良く働いて、その不条理や矛盾、不純に対して反応してしまいます。

時にそれは怒りに変わり、言葉となり、僕を通して表現されるのです。

「怒り」はネガティヴなもの。
という偏った認識は、少し変わってきているのです。

一方で正義感を盾に、横柄になってはいけない。
という俯瞰した視座の高い自分も共存しています。

そうやって僕の中では複数の自分の性質が、お互いを見張りながら、または見守りながら在るのです。

「カミナリ親父的な人がいなくなった」
と、いつかどこかで聞いた気がしました。

近所のおじさんが子どもを叱る。
そんな光景が減ったと。

それはただのお節介オヤジと見られて、敬遠されてきたのか。
犯罪が増え、不審者と見られてしまうから、子どもに声を掛けることも憚られる様になったのか。

失ったのは、親だけが子どもを育てていなかったんだ、という地域社会でしょう。

子どもを社会で育てていた。

多様な人の価値観に揉まれて、多様な人間への見識を深めていくことが地域でできていたはずです。

今は親が子を怒れない。

僕はこれに憤ってます。
って言っていいくらい、反応しちゃいます。

急に怒ったりはしませんよ。
段階は踏んでいきますんで、僕の周りに何か起きても怖がらないでも大丈夫です。

僕は割とバランス感覚あるんで、空気も読めるし、でも空気読まないでいっちゃった方が良いなっていう空気も読めるんで、根拠は無いけど僕はそういう自分を信じています。

僕は昔どこの町にもいた、頑固なカミナリ親父になりたいと思っています。

「カミナリ親父の言っていることは間違ってるから、聞くなよ」

って言われてしまうくらいで丁度良いとさえ思っています。

まあ、でも自分でも思いますが、割りかし真っ当なこと言ってると思います。

時に間違ってたとしても、良いじゃ無いですか。

間違ったことを言うことは、その時点では間違ってません。

その人の中の真っ当な気持ちは純粋です。

それが間違いだったとしたら、それに気付いた時、「間違っていたんだ」と改心すれば良いじゃないですか。

そうやって変容していく。
柔らかく、変わっていく。
それくらい柔軟な社会であり、人の集まりである事が当然のようにあったら、

きっともっと多様で思いやりのある世界になると思うんです。

間違っちゃいけないような雰囲気がおかしい。

もっと間違って、失敗して、
それを馬鹿にしない、否定しない、過度に擁護しない。
恥をかいて結構だ。

全部含めて、全てそれらがあるって前提の、共通の認識が社会に培われていたら、

それを築いていくのが本当の教育だと思うし、それは学校だけで学ぶものではなく、

むしろ地域。

カミナリ親父の存在とか、優しい穏やかなおばあちゃんがいたりとか、頼りになるあんちゃんがいたり、いつも笑顔で挨拶してくれるお嬢さんがいたり、

そういう事なんだと思う。

もっと声をあげよう。
でも自分をしっかり把握出来てますか。

僕は最近まで出来ていなかったから、しっかり言いたい。

自分をしっかり把握出来ていないと、怒りや正義感は他人を傷つける。

僕もまだまだですよ。
でも自戒したいから、あえてこう言って鼓舞する。

肚決めて、褌締めてね。

夜中に頭がフル回転しちゃってるんで、こんな時間に投稿しちゃってますけど、もうそういう流れなので、そのままいっちゃいます。

もう寝ないで起きようか。

長文になりましたね。
読んでくれたかたはありがとうございました。