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【心優しい気遣いさんは、自分に集中せよ】


自分で言うのもなんですが、僕は意外と気遣いします。

感受性豊かで、傷つきやすく、繊細ゆえに
優しい心を持っているので、人を気にしてしまうのです。

でも根っから気遣いが出来る、優しい人と言うより、
後天的に人に優しくなっていった感じかな。

子どもの頃の貧しい家庭環境が、
僕を協力的な人間にしたし、

両親の不仲、険悪で不穏な空気を敏感に感じ取り、
相手が何を考えているか察するという技術を身に付けてきた、そんな感じです。

その頃から30年以上経った今でも、そのクセが残り続けています。

子どもの頃の経験は深いところで根を張っていると実感しています。

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「気遣い」と良い感じに言ってますが、裏を返せば
「気にし過ぎ」でもあります。

他人のした事や言動を気にし過ぎてしまいます。

今の暮らしでも同じで、義娘がやりっぱなしにしていたりする事や、忘れていることに気付いてしまい、気がそっちに向いてしまいます。

それを僕もクセでやってしまう。
全くもって自動的にやってしまうので大変です。

気付いた時には僕は疲れていて、
「あれもこれもやってないじゃないか。いつやるんだろう」とかなって、

結局義娘に声掛けたりして、それを促すわけです。

つまり僕は「外」にエネルギーを掛けている事が多くなっています。

「外」にばかり集中しているような感じ。

「外」に気を遣っている。

それ自体は悪いことじゃないと思います。

「外」に「与える」という気持ちであれば、疲れないはずです。

例えば、赤ん坊のオムツを替える事に気付いて行動する事には「与える」感覚があり、僕も嬉しくなります。

でもなんで僕は義娘と居ると疲れてくるのか。
「与える」をしているような気がしていますが、何か違う。

義娘と関われば関わるほど、僕の精神が疲弊していきます。

「何が違うのだろう」

少し考えてみました。

義娘は発達障害グレーで、生活の多岐にわたって面倒を起こします。

「そういう性質だから仕方ない」という部分もある。

けど、今朝あったのは、「大変だから」という理由で、任せていた猫の餌やりを、お皿にあげないで廊下に直に撒いていました。

今までお皿でやってきたし、外にあるお皿に入れればいいことを、「大変」という表現で、楽な方法を選んだ。

僕は「大変だから」という真っ当そうな理由をつける、その不純な心に嫌気がさしてしまいます。

正直に表現すれば「面倒くさいから、外のお皿に入れないで、手前の廊下に撒いた」でしかないなっと思いながら見ていました。

そういうずる賢さを持ち合わせているから、「発達グレーだから仕方ない」を免罪符にしてしまっていいのか、とも思います。

でもさらに考えを深めてみると、

義娘はそうやって、
「ずる賢く生きないといけなかった」と思うのです。

愛情が足らなくて、枯渇して、自分は傷ついているから、

ずる賢く、嘘をついたり、他人を犠牲にしないとでも、傷ついた自分を守れない。

自分が我慢したり、苦労するなんて出来ない。

「もうすでにボロボロになってんだからこっちは。」

そんな気持ち、状態なんじゃないかなっと想像しています。

だから他人からエネルギーを奪うように、承認欲求が半端ないんです。

何かするたびに、「見て見て」と注文をさせようとする。

僕は繊細で心優しい、他人の気持ちがわかって、同じように感じ切ってしまう柔軟な心の持ち主なので、

そうやって承認欲求全開で視線を送ってくる義娘が視界に入ると、それだけでエネルギー使ってしまいます。

だから意を決して、無視しないといけない時が多いです。

それは裏を返せば「自分に集中できてない」。

「内」ではなく「外」に集中してしまっているからです。

僕のような気遣いさんは、「内」の自分の集中してあげないと、気付いた時、疲弊してしまいます。

「与えること」がもっとできたら良いなとも思います。

でも相手を選ばないといけない事も実感してます。

依存体質の相手には与えてはいけない。

自立した相手であること。

または、その相手の出来ない範囲をサポートすること。

ずる賢さで本当は自分で出来るのに、相手になんでもやって貰おうとする精神の相手には、僕のタイプは疲れるすぎるから無理だなっという結論です。

さっき深掘りしたように、そういう相手の事情もわかりつつあるから、断固拒否ではなく、

僕自身が疲弊しない範囲で、かつ相手の自立の力を最大限使うサポートを、真摯に、油断なく行いたいです。

目下、この義娘対応に僕は日々エネルギーが使われていて、自分にもっと集中してやって良いのかなと思っています。

僕のような気遣いさんが「外」に向けすぎているエネルギーを、

自分「内」に集中していけたら、今よりもっともっと良い結果、成果に繋がると思います。

僕自身も子どもの頃から、集中して取り組めば結果は出る、という成功体験をしてきました。

どうも永らく自分に集中しきれていなかった様に思います。

そうやって根っからのクセに惑わされてきたんですよね。

だから義娘とこうして、ひとつ屋根の下に暮らす事になったのは、

僕にとって、非常に大きな試練であり、越えるべき課題、日々訓練、修行なのだと捉えています。

発達グレーの義娘のせいにすることは簡単ですが、自分にそこも矛先を向けていかないといけんと省みた次第です。


えらい長くなりました。

今日も良い気付きになりました。

ありがとうございました。