「人間万事塞翁が馬」
山中伸弥教授のおっしゃる通り、「人間万事塞翁が馬」である。
私は人生で3回幸運を掴んだ。
その3回の幸運を手放さなかった。
そして、2度と不運が起こらないよう不運を徹底的に研究した。
不運を経験したことを未来の幸運のために役立てた。
人間には偉いお方と搾取するだけの人がいる。
偉いお方とは、そのお方の生き方をまねていくだけで自分が豊かになれる、幸せになれる、そういうお方のこと。
(そんなお方がおられる、私みたいなつまらない人間にさえ相手に話をされる、それは本当にありがたいことだと気づきました。
10年位前、某雇われ院長にその話をしたら驚いていた。)
搾取するだけの人とは、私が持っている、生きていく糧を奪って生きていくしか能がない人。
生きていく糧を自ら見つけることができた人は幸運である。
そういう人は、搾取するだけの人から離れて生きていきさえすればよいから。
「人間万事塞翁が馬」で、ひどい目に遭いつつ、その中にあった自分の失敗を見つけ、その失敗を二度としないよう、その失敗から学ぶこと。
生きていく糧をどうやって得るか。
それは自分の強みを知ること。
人に楽勝できる領域を自分で見つけること。
自分の時間と労力をそこに集中すること。
それが人が生きていくためにいかに大切なことか。
私は孫に、特に孫娘にそれをわかってもらえたらと思う。
それによって孫娘が幸せになってくれたらいいと思う。(足利義満風)
(https://youtube.com/watch?v=-Eo1YYGFzkM&t=225s)
「室町の覇者足利義満」 前編 武蔵大学教授 桃崎 有一郎 倉山満【チャンネルくらら】
室町の覇者 足利義満 (ちくま新書) 新書 – 2020/1/7
桃崎 有一郎 (著)
4.4 5つ星のうち4.4 95個の評価
義満も義教も爽快。(「義教」の教とは「ただ」と読む。教育とは「正して育てる」ということ。こどもを好き放題させて育てることではない)
公家も天皇も武士も坊主も日本にいらないと疑いを持ったら断定して食い扶持を奪ってしまう。
武士も天台宗の坊主も処刑してしまう。天皇、上皇も島流しにしてしまう。
今の日本もそんな人が出てくるのを待っている。
チャンネルクララで桃崎氏を紹介されるとき、倉山満氏は1日で読んだと言われた。
これは足利義教の本だと言われた。
義教については何ページも書いてない。
尊氏も義直も義満も義詮も義持も義量も義教のためにある。
義教は万人恐怖と言われた。
義教は父義満に学び後花園天皇を育てた。
義教が殺された後、天皇は長い漢文調の綸旨を出した。
このとき、天皇は自立された。
義教の天皇愛を感じた。
義教はすごい人だとわかった
(なぜわかったか。それはこども二人を結婚させ、自立させた親としての経験から理解した)。
平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」 (文春新書 1405) 新書 – 2023/7/20
桃崎 有一郎 (著)
(https://youtube.com/watch?v=-Eo1YYGFzkM&t=225s)
「「京都」の誕生」で私は、(平安京と京都は違う。平安京は古代の思想の産物だが、京都はそれを打ち破って平安京を改変した、中世の思想の産物だ)と指摘した。根拠は、後白河法皇の御所「法住寺殿」の来歴だった。法住寺は、平治の乱で滅んだ信西と藤原信頼の遺産を吸収して造られ、後白河と彼らの親密な関係が反映されていると強調した。すると、そこが担当編集氏の印象に残り、氏から「この部分を読んで、初めて平治の乱が理解できる気がしてきた」と賛辞を頂き、「この本が終わったら、平治の乱で一冊書きませんか」という提案を頂いた。
とプロローグにある。
最初、歴史家がここまで踏み込んで言っていいのか、迷ったと桃崎氏は序文で言っていた。
でもやりましょうと担当編集氏に言われ、「平治の乱の謎を解く」を世に出した。
ノーベル賞もらった小柴昌俊氏も言っていた。間違ったことを言うとその後は誰にも信用されなくなる。
歴史のできごとのひとつひとつの点を連続したものとして説明して見せる。
誰も言わなかったことを言って皆をうならせる。
そして、納得させる。
世の多くの人に新しい見方を持ち込む。
桃崎氏のfanになった。
nhk、小説なんかは明らかな嘘が入れてあるので見ないし、読まない。
「天皇いらない」とデモをやる浅薄な人たちにも読んで欲しい。
彼らは外国人だから外国人の意思に従わせようとする。
日本人を人口侵略しようとしている。
日本人に生活費を依存し、医療費を日本人に払わせ、自らの出自を隠すことによって、裁判官、官僚、政治家になり、日本人に寄生する。
寄生して日本人を支配している。
こんな恥さらしなことを書いて、恥ずかしくないのか。
と時々思う。
ときどき、耐えられなくなって自分の書いたことを削除してしまう。
でもこれを人に伝えられないと自分は無に等しい。
自分は無であることには耐えられない。
それでまたupしてしまう。
毎日これの繰り返し。
毎日、時計の振り子のように振れている。
これを書くことで人に対して何らかの参考になればと、自分が生きていることを確かめられればと思いつつ。
私が精神科医やっていても、一人一人の人に面接で同じことを言う。
それだったら、xに書いておけばそれで目的は達成するではないか。
followされる人もいるだろう。
そのたびに、少し読んでもらえるといい。
私自身、いいねとか、followされるとどんな人かfollow backする。
相手にされるようになったら、youtubeに出ればいい。
今はyoutubeに出られるほどの自信がない。
と思いつつupしている。
私は想像を絶する世界の中で生きてきた。
「兄貴は精神病になるか自殺する。」
と私が18歳のとき、16歳の弟は私に言い放った。
今になっても何ら訂正しない。
失礼な行動をあやまりもしない。
当然だという顔をしている。
俺は兄貴よりよく知っていると主張する。
これを兄に知らしめることが俺の使命だという顔をしている。
そんな弟の浅はかさ、それに惑わされる馬鹿ども。
そんな田舎に住んでいた。(不運)
小学校6年のとき、教師で担任をやっていた先生がいる。
その先生は寺の住職もやっていた。
その先生が住職をやっていた寺は今も美濃市にある。
その先生は祖父が人間として阿呆であること、父母が不在であることを利用して、ホームルームの時間を1時間使って、私に人民裁判をかけてきた。
その先生は警察官、裁判官、検事を気取っていた。
その先生は卒業アルバムにその結果を証拠として残している。
その辺がその先生の愚か、浅はかなところ。
その証拠は今も見ることができる。
その証拠写真をたどっていくことにより、小学校の同窓会でそれが事実かどうか確認することができる。(不運)
某国立大学工学部機械科を1年留年した。
卒業した。
そこの一人の教授が中学生レベルだった。
中学生でもわかることを何年もかけてわからなかった。
それを卒業研究発表で聞いていた助手だったか講師だったか忘れたがその人に指摘されてその教授はすぐに引っ込めた。
それは卒業研究発表していた学生にもすぐにわかった。
卒業研究発表していた学生は教授批判なんてできない。
卒業研究発表で第3者に指摘されるまで、教授に言われるままに実験しデータを出している他、そこから逃れることはできなかった。
中村修司は学会で名を売った。
一流の研究者とは自力でなるもの。
人に教えてもらってなるものではない。
大村智教授は30人以上の教授を輩出した。
大村教授に感謝する教授の同窓会がある。
将来教授にさせてくれる教授につければ実力がなくっても将来も安心。
私は一年留年した。
就職がどこにもなかった。
外見的には不運にみえるが、実はこれが幸運だった。
2年かかったが、医学部へ入学できた。(幸運)
普通、工学部出たら会社に勤める。
そして、60歳になるまで会社で働く。
そうすることで時間を失う
60歳になって、退職する。
そして、あっと気がつく。
収入が少ない。
困った。
となる。
歓迎コンパで悪い上級生がいて、酒を多量に飲まされ、転倒し肩鎖関節脱臼をやり、手術を受けた。(不運)
今から思うと、これが「人間万事塞翁が馬」だった。
術後はたばこをやめることができた。(幸運)
こうまでしなければ、たばこをやめることはできなかっただろう。
たばこをやめたから癌にならずに70まで生きることができた。
そして、こどもにはたばこを吸わなかった。(幸運)
息子は工学部なんて受かっても行かなかった。(幸運)
そうなるように教育した。
こうして、不運も幸運に変えることができる。
その積み重ねが今なのである。
工学部へ行ったことが私の失敗だった。
工学部に行っても私は自分を守れなかった。
私は自身を守るために医師になった。
飯が食えないほどの苦境に落とされたなら医師の仕事をやらない。
人からそのような辱めを受けたときも同様。
それは今も続いている。
産婦人科の研修医のとき、
妊娠した女性がいた。
その人は美しくって幸せに満ちていた。
でも胃癌がみつかった。
胎児はおろした。
外科でその女性を偶然見た。
がりがりにやせてベッドに横たわっていた。
骨と皮だけになって、目だけはらんらんと生気を持っていた。
私を見て恨めしいと訴えていた。
その目を忘れることができない。
私はその目から逃げた。
逃げに逃げに逃げた。
その人は私を本当に恨めしそうに見ていた。
以来、癌患者なんてかわいそうでかわいそうで関わることができない。
そして、ついに精神科まで逃げてきた。
精神科は患者が癌のようにすぐには死なないからいいと思った。
精神保健センターへ誰が行くか、誰もいきたがらない。
S医師は当時医療部長をやっており、私を送りたがっていた。
S医師は一年上の先輩を私の部屋へ送って情報を聞き出そうとしていた。
なぜそれがわかるかというと、普通決して私の部屋へ来ない医師が、その期間中だけしつこく来たからである。
それに失敗すると、2年下の女医、3年下の医師を順次送りこんだ。
3人目に来た医師はパソコンをのぞきながら、私と話をした。
私の生い立ちをしゃべると後輩の精神科医は偉そうに「そんな者は医師になってはいけない」と言った。
その医師は今開業医をしている。
S医師はそれが重要な情報であると思ったのだろう。
妻を病院の部長室へくるよう私に命じた。
妻は歩くようになったばかりの娘の手をつないで病院の2階の廊下を歩いて帰って行った。
それを100m離れた遠景で見た。
その姿が今も目に焼きついて離れない。
S医師が存命中であるため、そんな世界に私は今も住んでいる。
S医師は「oo先生は(恩のある者に対して)逆恨みする」と私には言わないが、あらゆるところで言って回っているようだ。
S医師の行動については周囲の医者に聞けばわかること。
私が雑用から離れているのは私の意志ではない。
S医師の意志による結果である。
S医師はやっかいな雑用から35年間私を引き離してくれたから私は今ではむしろ感謝している。
S医師は勘違いしているようだが、私はS医師に逆恨みなんてしていない。
S医師がこっけいだと思うことは、私にそういう扱いをすることが自身の使命だと堅く信じて疑わないで人生を終えようとしていることである。
私は自分と家族のことだけに集中することができた。
それはそれはすばらしい財産となった。
医者の中でも私のこころをわずかに見るお方がいらっしゃる。
それがたまたま教授だったりする。
病者は私のこころをすぐに理解する。
病者は私に共感してもらえるから、温かい気持ちに触れることができるから、そんな私をすぐに認識する。
Berserkの妖精は主人公にこころ引かれるようになる。
その描写はすばらしい。
主人公が強力な敵と戦って、人間のこころを失おうとしているとき、妖精が主人公を現実の世界へと引き戻そうと主人公の心の中に入ってくる。
その行為により、主人公はかろうじて人の世界に戻ってくることができる。
私はその妖精である。
病者は強力な敵と戦う主人公である。
病者を理解しない者が病者の前に現れるとそれは悪魔である。
8人程で参加するday careをやっていると、「先生はちがう。自分ではわからないとき、どうしたらいいか教えてくれる」と言ってくれた人が1人いた。
精神保健センターのday caraの中で、私に主治医になって欲しいと言った若者がいた。
所長が主治医だった。
「所長がいいと言えば」と答えてしまった。
その後、しばらくして家具をひっくり返すような大きな音が所長室から聞こえた。
所長は主治医を私がすることについて一度断ったのだろう。
その結果の騒ぎだったのだろう。
所長は私に主治医の話をした。
所長は「やってもいいよ」と言った。
「私はやりません」と答えた。
その後、その人を見かけなくなった。
もう一人の綺麗な女性に面接のとき主治医になってほしいと言われた。
某病院の前に土地がある。そこで開業しようと言ってくれた。
当時も今も、私は医師の扱いを受けていない。
そのため、こころに余裕がなかったので断ってしまった。
私が辱めをうけているとき、どうして病者を助けることができるだろうか。
Sullivanは開業医をした。
あるとき、若者が治療を求めてきた。
しかし、Sullivanは断った。
なぜかは書いてない。
なぜ断ったのか。
それは一人何百万円とかかる治療費を若者は払えないと判断したからだ。
私が大学で研修医をやっていたとき、某教授は教授室へ私を呼んだ。
「Sullivanは大変な多額の治療費を患者に請求した」(悪い奴だ)とばかりに吐き捨てるように私に言った。
「何をおっしゃる。それはSullivanに対する教授の劣等感でしかない。病者と家族にとって、一生精神病院にぶち込まれるのとどららがいいか、国民から見て費用的にどちらがいいか。分裂病者の心を理解できない。だから分裂病者を治せない。だからSullivanが理解できない。だからそういうことばが出るんだ」と思ったが口には出せなかったよ。教授室で「Sullivanは60歳になってから勉強するものだ」と某教授は別の日にこっそりささやいたこともあった。
教授を除く大学のすべての教官から私は疎まれている。
S医師は一手にその仕事を嬉々として引き受けた。
S医師は今に至るまで私を冷遇しているつもりのようだ。
(冷遇と引き換えに野暮用からも解放されてきた。
今ではS医師に逆恨みどころか感謝している)
そして、私は今やすべてを理解し、幸せに生きている。
医者なんて、患者を治してなんぼだ。
治せるもんなら治して見せろ。
それから見たら、学会とか大学教授の地位とか院長なんてくそみたいなもんだ。
学会とか大学教授とか院長なんて、今までやってきたことの余祿である。
(余祿であっても、教授のように今でも一線で活躍され、その仕事ぶりで感謝されているお方もおられる。)
今や彼らは大切な自分の時間をつぶしている。
彼らは自分でしかできない得意分野で働いていない。
誰でもできる野暮用を嬉々としてやっているに過ぎない。
(彼らは旬の時期を過ぎている)
ということに最近気づいた。
でもちょっと前まではうらやましいと思っていた。
Sullivanの著作はこころあたたまる。
だから、Sullivanの著作に5年間没頭できた。
「精神科医をやってもいいのはどういう人ですか」という質問に対し、
「飯を食うために精神科医をやっているなら、それだけでその資格がある」と答えた。
私は36年間このことばに励まされ続けた。
誰も緊張病者と話がしたいと思わない。
彼らと関わりを持つとこちらの精神はずたずたに刻ま れる。
ずたずたに切り刻まれながら病者に共感する。
(学会で発表していた美しい女医を一目見てこれは緊張病者と変わらない、Sullivanは女医に自発的に治療を申し出た。)(美人でなかったら申し出たかどうか、わからない。申し出るかどうかは個人が決めること。人がどうこう言うことではない。治療は強制されてできることではない)
治すほうとしてはすごくenergyが必要である。
自分の身を切り削りながら治療者は病者に共感しながら病者の世界に入っていく。
その中で治療者の精神衛生はどんどん悪くなっていく。
これはもうBerserkの世界である。
だから、自分のこころの平穏を保つため、安い治療費では決して引き受けない。
Enoch Pratt HospitalでSullivanは多数の患者の治療をした。
当時は薬がなかった。
その状況下で緊張病者をどんどん治していった。
病院の管理者は大きな権限をSullivanに与えた。
同僚が羨むほどであった。
Sullivanは急性期病棟を任せられた。
Sullivanは看護師にも治療させた。
(医師の資格がなくっても共感する能力さえあれば治療は誰にでもできることを証明した。)
その中で看護師は自分が疲れたと思う。少し休みが必要だと思う。
そんなとき、Sullivanは看護師には何日か休んでもらった。
それはpersonal psychopathologyに書いてある。
小児が専門と称する性格の悪いある大学教官は「Sullivanは薬がないのに治した。すごいだろう」とこっそりと教えてくれた。
「あなたは薬でしか治せないのか。それは精神科医としてインチキだ。」とすぐに思ったが口には出さなかった。
その教官がいたから私は児童部には行かなかった。
(今から思うと、優秀な助教授が一人いた。でもその助教授はほとんど大学に姿を見せなかった。)
10年位前、横浜で小林登先生と二人で学会で個々の治療成績について発表された。
小林登
https://google.com/search?q=小林登&rlz=1C1JCYX_jaJP1058JP1058&oq=小林登&aqs=chrome.0.69i59j0i512l9.12122j0j7&sourceid=chrome&ie=UTF-8
先生を初めて見た。
そして、今、研修医時代の大学の助教授のやさしさを思い出す。
名医とはこのようなお方だと思う。
名医とは病者がやさしいと思えるお人である。
この二人の違いは病者にとって天使と悪魔の違いだったろう。
(悪魔から全く逃げれないということではない。こいつはだめだなと思ったら、通院をやめればよい。)
小林先生は「病者と父母は一緒になってよくなっていった」とおだやかにおっしゃっておられた。
大学教官であったその先生はさすが学会の発表の場であったため、正直に白状していた。
外国の本を見せてこの翻訳本だけが頼りと言った。
その著作によって、父母、病者に大量の投薬をしていたことを正当化した。
父母、病者はどんどん悪くなっていったと正直に発表した。
これでよく小林先生と一緒になって演壇に立ってしゃべれるな、よく恥ずかしくなかったな、無知、無能がゆえの暴挙だった。
Sullivanの治療成績はアメリカ中に広まった。
同業者はSullivanがどうやってそんな治療成績を出せたのか知りたがった。
personal psychopathologyは、最初、アメリカで私家本として出回った。
personal psychopathologyはSullivanにとって個人的な精神病理学。
Sullivan自身の精神病理学である。
Sullivanは自分で自分を完全に治すために、精神科医になった。
病院では緊張病患者を観察、治療した。
そこで得られた成果、記録がpersonal psychopathologyに描かれている。
アメリカの精神科医は有能になろうとして皆が手に入れた。
そして、読んだ。
でもわからない。
読んだだけでは有能な精神科医にはなれなかった。
65歳冬、土曜日朝岡崎の奥にある山村を歩いていた。
そこへ初孫が生まれたという知らせ。
その瞬間、景色は一変した。
「自分のやってきたことは間違いではなかった」。
自分のような人生は送らなくてよいように、それだけを考えて子どもを育てた。
二人のこどもは自立し結婚した。
もうこれで親のやることはなくなったと喜んでいた。
そして、うすぼんやりと待っていた孫ができた。
爺婆にとって孫とはこんなものかと知った。
今度の目的はその孫が一生気楽に生きていけるように孫を助けること。
今年3人目の孫。
女の子。
その子は母親に抱かれているとき、この人は誰だろうと思っているのか、私をじっと見つめる。
そうなると完全に孫娘の僕となってしまう。
爺は正しかった、
それを証明するのは自分ではない、他の人なのである。
m3に登録しているが、m3のお世話になってしまうと、私は教授の手を離れることになる。
「ああ、oo先生は自立したんだなあ。もう私が助けてやらなくてもよくなったんだ」と思われると、私は教授の保護も受けられなくなる。
だいたい、医学部なんて恵まれた家庭環境でないと来れない。
それは医学部へいくとよくわかる。
半分は私立の進学校からきている。
paper testの成績が良かったから入学できた。
そして、医学部に在籍することでそのまま医者になっていく。
長期信用銀行に就職すると「ハイヒールを履いてヒマラヤに登ってきた者ばかり」の世界だったと上念氏が言った。
トヨタでも公務員でも同じ。
conne入社である。
conne入社で入社してもそのときはよい。
しかし、その後、地獄がやってくる。
本人は自分の力で入社したのではない。
会社が入社させてくれたのであるから、自分が入社できたのは会社の力による。
でも働いている間にときが経つ。
私が大学を出てもどこにも入社できなかったのは幸運だったのだ。
これでいいのだ。(赤塚不二夫の天才バカボン)
渡瀬裕哉氏が言うように20代は誰もがsupermanである。
超人間である。
人は20代だと、大変な能力を出すことができる。
ときさえつかまえることができればよい。
自分でできることはすべてやって、後は運を待つ。
外科医が名医か藪医者かは手術した後、患者にわかる。
手術が下手だと死ぬから、それでわかる。
精神科の医者が本当に治せる医者か口だけの藪かは病者にはすぐにわかる。
病者が話をする。
病者がどれくらい理解されたか、病者はすぐわかる。
精神的に楽になるからすぐにわかる。
Black Jackは外科医だから手術がうまくいったかどうかすぐにわかるから名医かどうかすぐにわかる。
手術が下手だったら患者が死ぬからすぐわかる。
山中教授は整形外科医になろうとしたが、同僚、上の医者から、その手術を見て、ああ、この人には手術をさせてはいけないと思われた。
だから、「邪魔中」と手術中に言われた。
kirikoは家族の希望をかなえて安楽死させる。
kirikoはてっとり早く毒薬を出して殺す。
医者として無能であっても家族の気持ちにそって動くので家族に感謝される。
私が研修した病院の産婦人科のK先生が言っていた。
精神病院は患者が入院しても家族は喜ぶ、死んでも喜ぶと。
(精神病院の精神科医なんてちょろい。
精神科医なんて、上品な顔してるけど、下手すりゃkirikoにもなる。)
産婦人科医と小児科医は治して当たり前と世間では思われている。
悪くなったらすぐ医療訴訟。
精神科医とはきびしさが全く違う。
普通の精神科医はなにやっても喜ばれる。
本当に治すとなると精神科医はBerserkの世界へ入っていく。
そのBerserkの世界に入っていって治そうとしていた人をごみみたいに扱う。
上の医者に本物と偽物を見分ける能力がない。
ごみ扱いされてまでして、他人を良くしようとは思わない。
そういう扱いを受けると、人はせめて自分と家族だけは守ろうとする。私は自分がすごく悪いことをしたように思った。
努力目標を最低辺まで下げる。
それを人生の第一の目標とする。
私はずっと低空飛行をしてきた。
私は自分と家族が飯を食うためにただそれだけのために必死になって精神科医をやってきた。
そんな私さえ、神は見捨てなかった。
あるとき私にも大きな喜びがやってきた。
ずっと低空飛行をやってきた成果はどこに現れたか。
自分のこどもに現れた。
二人のこどもは自立して結婚した。
孫が6年前に産まれた。
孫は今も成長中である。
今年孫娘ができた。
孫娘のために妻と一緒に毎週娘を訪れている。
来年はもう一人孫娘が産まれる。
この子のために私たちはがんばらなければならない。
1年半後には娘はアメリカに行く。
妻は孫のためにアメリカについていく。
私はもう孫娘のためだけにある。
妻もそういう自分を喜んでくれている。
爺がいてお金を稼いできてくれているから、おいしい梨、葡萄、みかんが食べれる。
妻一人では孫の世話はできない、
爺が孫を乳母車で連れて行ってくれるからその間に食事を作れる。
と孫や娘に言ってくれている。
札幌の共産党の病院の精神科医の娘が殺人をやった。
被害者が娘になめたまねをした。
だから、娘は計画して被害者を殺した。
今まで、そうやって生きてきた。
父親も死体処理に協力した。
日頃、父親も母親も娘にそういう教育をしてきたから、簡単にそういうことができた。
未婚の娘が人を殺したとき、両親は待ってましたとばかりにすぐに猟奇的に行動できた。
そういうやっかいな親だった。
私たち夫婦はこどもをそんなふうには育てなかった。
今、こどもたちは気楽に生きている。
それだけが私たち夫婦が望んだこと。
一度Sullivanのような医者を題材に映画を見たい。
これを描くのは難しい。
参考に
Psychiatrist of America: The Life of Henry Stack Sullivan ハードカバー – 1982/3/15
Helen Swick Perry
がある。
「おかえり」と言える、その日まで
中村富士美
で検索した。
著者のお顔を見ることができた。
山へ行くと言ってその後突然いなくなった人。
LiSSへ依頼がくる。
その時から仕事が始まる。
仕事は遭難者の発見まで続く。
中村氏がいなかったらできなかったであろう難事件を解いていく。
行方不明になった人だったらどんなことを思って行動するか、その人のことを考えながら捜索する。
遺体が発見されるまで家族と一緒にいる。
4年、5年経って、土砂崩れが起こった後、登山用ズボンが見つかった。
軽アイゼンが見つかった。
車のキーホルダーが見つかった。
草をかき分けると指の骨が見つかった。
流出した土砂と一緒に、枯れた大木が沢に流れ着いていた。
大木の中から屍蠟化した状態で発見された。
まるで、大木に守られているかのように横たわっていた。
家族は遺体がみつかるまで時間が止まったままであると言う。
遺体がみつかると、時間が少しづつ動き始めると家族は言う。
著者は遺体がみつかるまで遺族に連れ添われる。
謝辞において、最初に
「経験されたことを本書に記述する許可をくださったご家族の皆さまに厚くお礼を申し上げます。」
と書かれている。
亡くなった人をみつけるまで遺族と一緒にいてくれた。
人に知られたくないことだが、世に対する警鐘として役立つならと遺族は本にすることを許可された。
一字一句逃すことができない。
2023-1に雪が積もった。
釈迦が岳へ登ろうとした。
キャンプ場までしか行けなかった。
そこの登山道で3時間ほど停まった。
雪景色を楽しんで、そして、追い抜いていく3人連れの登山者に挨拶し、その後帰った。
これを最後に山に登ることはなくなった。
私は山に登って帰りが真っ暗になることが通常だった。
下山時、真っ暗な中で何か怖いものを感じることが何回もあった。
そんなときは、いつも母が近くにいると感じた。
そうすると、温かいものを感じ、怖いものはいなくなった。
そのたびに、ああ、守られているんだと思う。
妻もこどもがこんなになった、息子には孫をあきらめていたが、孫も産まれる、そんなことを指摘して、先祖に守られていると言った。
最近、妻の喜びの声を聞くことが多い。
孫ができた、娘も嫁も頼ってくれている。
今までの妻と私の苦悩に満ちた人生は何だったのか。
realforceとjapanistはいい。
この組み合わせは楽に打鍵できる。
今まで7回位一太郎をversion upして買っていた。
4-5年前までは親指ぴゅんを入れてatokを使っていた。
でもそれも使えなくなった。
それで今はjapanistを買って使っている。
何年か前に、私は一太郎に電話した。
「japanistはもうversion upしない。
だから、一太郎でその権利を買い取ってatokに取り込んで欲しい」と。
「一太郎はこれによって最強になるから」と。
「そうすれば一太郎を買う」と。
でも一太郎の会社はそれが理解できず、受け入れてくれなかった。
一太郎の会社は日本語入力の会社だが、日本語入力の何たるかを知らない。
japanistは変換効率はめちゃ悪い。
登録漢字もめちゃ少ない。
でもjapanistはローマ字変換を頭の中でしないでそのまま日本語入力できる。
日本語の思考そのままで勝手に指が動き、入力、打鍵できる。
atokは、変換が最悪で、登録漢字が最悪なjapanistに負けている。
一太郎の会社はそんなjapanistという日本語変換ソフトに負けていて何とも思わないのだろうか。
私はこのままではもうatokには戻れない。
この2つの道具がないと、こんな文章は書けない。