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原点と発想

少し前に発刊になりました「LUXURY JAPAN」。
(撮影・取材はコロナ前)

小さい記事ですが、「龍吟」さんの隣ページに掲載頂いております。この時は、蕪を皮ごと丸っと使用した一皿。

いつも考えている事の1つに、僕が作る料理の原点ってなんだろう?があるんです。ある一種の型。僕の型。

僕は特に、遠野らしさを意識したとか郷土愛的な物はあまりなく、自分を育ててくれた家族、その家族が創り守って来た「宿」に対しての、愛情や感謝する気持ちは強くあるんだけど、遠野の為にとかはあまり考えた時が無い。ただし、この土地でスタッフはじめお越し頂いているお客様達と過ごす時間が好き!って言うのは間違いないんです。それと自然。

(これが、郷土愛なのかどうかは今のところハッキリとはしていないんです。笑笑)

その自然からの恵である食材達、自分達で育てているお米や酢・どぶろく等に対しての愛は本物。圧倒的に収穫してからのタイムロスは短く、味わいの表現を爆発的に飛躍させるには申し分ないといつも感じています。僕は常に現場が好きで、現場にいる時間も圧倒的に多い。料理の仕込みや経理以外の時間は、早朝から主に田圃にいる事が多いんです。

何百・何千回と田圃を見て周り、田の中に入り稲の葉や畔の草達に触り、虫を観察してを毎日毎日繰り返す。そんな時にボン!とアイディアが出てくる。頭の引き出しを開けては閉めてを繰り返し、頭の中で思い描く味を1度創り、バ〜っとアシスタントにLINEする。そして、次に調理してみてどうだろうを繰り返していく。
はちゃめちゃな皿が、まとまりある皿へと変わる一歩手前みたいな感じ。

同じ現場としての時間を見たら、料理人としての時間よりも、醸造家としての時間よりも、米農家としての時間が大きいんです。
発想の原点は、間違いなく田と周りにあります。着地点も大切だけど、それ以上に、そこに至るまでのプロセスがとても大切だと思うのです。

なんでもかんでも、目まぐるしく変化し続ける世の中。アップデートって言葉をよく耳にするけど、更新は出来ても、進化ってそう簡単な事じゃない。

馬鹿だと思われがちですが、同じ事を繰り返し繰り返し何百何千何万回とやっていく中で、自然と経験値から自分だけの答えを感じ取り、自分の物にしていってる過程がちゃんとあるように思います。いろんな困難や変化の中で、自分では意識しなくても、ちゃんと適応しているんですよね。それが進化に繋がる第一歩。

あまりにも答えばかり求め過ぎると、適応すら出来なくなって行く。生き物、特に人間って十人十色じゃないですか。誰にとっても必ず原点はあります。

始まりも、答えがある場所も、いつも決まって現場にある。僕にとっての現場にあるんです。

自分の型ってなんだろう?
答えはもう出ているんですけど。
型の話はまた後で。




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