車椅子ユーザー当事者が、例のイオンシネマトラブルとエレベーター問題の、SNSでの論争を見てて思うこと

以前まではあまりこういう話題に積極的には乗らないようにしていたのだけど、私の生き方・考え方に対して世間(=いわゆる身体障害のない“健常者”が大多数の社会)とのズレを感じて、ものすごくもやもやしたので、せっかくnoteを作ったので書いてみることにした。

なお、私はあのイオンシネマトラブルの当事者に全面的に賛成してるわけではないので、「あのトラブルから派生して考えていること」と捉えてほしいかなあ。
結論自体は正直、ない。

大前提に、私のこと

1.持っている障害について

私は生まれつきの障害で、人生の中で歩行を経験したことはない。現在は簡易電動車椅子ユーザー。

幼少期から同い年の子よりも体がかなり小さく細く、力ももちろん弱かった。
自力で学校に通うことも、校内の移動も、車椅子ひとりで遂行するには他の子の10倍くらいは時間がかかってたと思う。
簡単に言うと、体育の授業で50m走に出されて、半分の25mにハンデをもらっても普通に1分半くらいかかっていた。想像に難くないけど、「同じ50mを動くために必要な時間」と考えると、どれだけ時間が必要か感じてもらえるかもしれない。

これと同じように、健常者社会の同じ土俵で「動こう」とすると、常に“健常者の想像する時間”とはギャップがあり、時間との戦いの積み重ねだったりする。

2.どうやって育ったか

私自身は、両親が本当に頑張って“今後も大多数である健常者の社会で生きなければならないからこそ、最初から健常者社会の中で”という考えの元、一緒に壁にぶち当たりながらも家族として守り大事に育ててくれたと感じている。
私が生まれた時代が、ちょうど障害者やバリアフリーに対する意識が変わってきた良い時代だったかもしれない。この辺の変化の社会史ってたぶん面白いんだろうね。
知能面や、字の読み書きなどの机に座って学んだり作ったりすること自体には健常者の中で遅れを取ることが全くなかった(※頭は良くない)ので、主治医や学校側との相談の上で、ごく普通の地元公立の幼稚園・小学校・中学校・高校へと進んできた。

田舎の公立学校だったから、施設面で言うと比較的即時で対応できるスロープ以外のバリアフリー設備はなく、他は階段。エレベーターはなかった。
トイレも車いす対応トイレといったものは基本的になく、いくつかの階の一番奥のトイレ2個を1つにして、スライドカーテンをつけて、「広いトイレ」を作って対応してくれていた。
これは文句じゃないよ。
入学することを拒否せず、その当時にできる施設設備面を最大限整備して受け入れてくれた幼稚園や学校には心の底から感謝している。

私が何か必要時に困らないよう、いつでも支援できるよう、休み時間には誰か先生が1人見守ってくれていた。
この辺はほんとに、私の周囲の大人が子ども同士の善意に任せすぎず、車椅子の子どもを身体的に健常な子どもたちと一緒に学ばせるシステム作りだったのだと思う。
私自身が敏感なタイプだったし、何か失敗しては怒られてきたので(笑)、その場その場で“自分の障害が理由でできないこと”に対しては、ちゃんと大人に頼るようになっていたし、自分でできることの範囲をきちんと知っていたから成立したことかもしれない。この判断力を養ってくれた私の周囲の大人たちは本当に凄いと思う。(その代わりというか、周囲を頼ること・弱みを見せることに対しては今でも少し苦手意識がある)

前置きが長くなった。
ここから書くのは上記の育ちな私が、ずっと守ってくれていた家族から離れて一人暮らしをし、健常者と同じ条件で就職して、“ごく普通の会社員”という肩書を持ちつつも、車椅子であるが故に感じていることだという前提で読んでほしい。

障害というのは、「選択肢が少ない」ということ

例えば、駅で電車に乗るとき。

殆どの歩行が可能な人は、複数ある改札のうちどれを使っても通れると思う。
車椅子の場合、複数ある改札のうち1つか2つしかない(大抵の場合は駅員窓口に一番近い1つの)広い改札しか通れない。ベビーカーとか大型キャリーもそうだね。
駅員さんの窓口に近いので、電車や改札トラブルで駅員さんに用事のある人が、その広い改札を占拠していたりする。
夕方、塾帰り列をなした子どもたちが一斉にその広い改札から入るため、他の改札は空いているのに自分だけ5分10分改札を通れない、なんてこともちょくちょくある。

広い改札1つが故障していたら、遠回りして別の改札口に向かうこともある。
エレベーターが故障していたら駅に入ることすら叶わない、なんてこともある。

正直あんまり考えたことなかったんだけど、電車に乗る行為1つでも“選択肢の限定”は既に発生している。
選択肢の限定が何に繋がるかというと、「消費する時間」である。
ちなみになぜあまり考えたことがないかというと、ここで考えすぎると自分が卑屈になるからだ。卑屈な人間になりすぎないよう、敢えて考えないようにしてきた笑

で、消費する時間とは、先ほどの改札の例でいうと”広い改札まで移動する時間“、”広い改札に通れるまでの時間“だ。
目の前にある改札どれでも通ることができれば、一番近くの空いている改札を通ってホームに移動できる可能性が高いし、その動作にかかる時間は広い改札1つと比較するとかなり短くなる
1回あたりの時間差は小さいかもしれない。ただ、選択肢が少ないと1回あたりの時間が大きくなる可能性は、当然ながら上がる。
毎回ともなれば差は開いていく。
毎日24時間必ず大型キャリーを肌身離さず引いて動いていると考えて頂くと、わかりやすいかもしれない。

でもね、1つでも広い改札があって通ることはできるから、社会ルール的にはこれでバリアフリー対応できていると見なされる
文句じゃないよ本当に!昔は通れなかったんだから、通れるのがあるだけでもそりゃ助かってる。

この社会こういった、行動に関する小さな選択が意外と山ほどあって、その選択肢から選べるものは、条件が増えればもちろん少なくなる。
健常者が大多数の社会だから、健常者の目線で選択肢は作られている。

こう考えると、健常であろうとなかろうと、平等に1日は24時間しかないのに、同じ目的を果たそうとした時、必然的に“障害が理由で”消費する時間が多くなることが伝わるだろうか。

私は“同じ目的や行動に対して、選択肢が少ない。そして可能不可能含め、必要時間が多い側面”こそ、障害というものを持って現代日本の社会と生きる上で一番の課題なんじゃないかなと捉えている。(海外のシステムは知らんのであえて日本とする)

今回のイオンシネマ騒動・エレベーター問題から考えること

「車椅子席しか選ぶな」という選択権の否定がつらい

特にイオンシネマ騒動で一番悲しかったのは、「車椅子席がある映画館なのに、わざわざ車椅子席が設置されていないグランシアターを選ぶ」が否定されまくっていたことだった。
私も映画館で観る映画が好きだ。良いスクリーンで観たい映画だってある。座席も選びたい。

ただどれだけ大きなスクリーンであっても、車椅子席は設置数が少数で、それも設置されている位置は前方のみだったりと限られている。
前の方は首が痛くなったり、目が疲れたり、3Dだったら歪んで見えたりする。
後ろの席が良ければ、介助者を連れて行って座席で観たら良いと思うかもしれない。
でも、その考え方の時点で「1人で映画を観たい」などの、本来誰にでも与えられているはずの“映画を好きなスタイルで観る”という選択肢が、車椅子ユーザー側にないのだ。

騒動の彼女も同じで、グランシアターで観たいという彼女の主張自体は、おそらく人としてものすごく普通だ。
だからとても多く見かけた“障害者だから車椅子席のないスクリーンを選ぶのは非常識”という意見は、車椅子ユーザー側にもあって良いはずの選択肢を完全に無視していると感じた。
ここがとても、しんどかった。

同時にイオンシネマ側に言われたという「この劇場を使わないでくれるほうが、お互いに気持ちがいい」という趣旨の言葉も、同じ映画館のいち観客として車椅子ユーザーは頭数に入りませんよと言われているようで、そりゃ悲しいわなと思った。

※ただ言っておきたいのは、「スタッフの手伝いで段差を上げてもらっていた」という部分に関して私は賛同できない。
本当に危ないので、イオンシネマにその対応をしてでも車椅子ユーザーを受け入れてほしいとか、そういうことを言いたいのではない。

1人のお客さんとして“車椅子の人は頭数にない”意見が飛び交うインターネットの状況に、まだこういう社会なんだ……とショックを受けてしまった。

同じ社会で生きる人の中の一人、でありたい

冒頭で私の学生時代の話をしたけれど、私は子ども時代から本当にありがたいことに「学校で学ぶ生徒の一人」として頭数に入れてもらっていて、その当時その公立学校でできるシステム作りを見てきた。本当に、周囲の大人に恵まれていたので。
だからこそ私は今、ごく普通の社会人として、車椅子とはいえ色んなことができる、自立した生活を送ることができてると思ってる。

同じように、まず“社会で生きる人”に、障害がある人(車椅子だけでなく、本当にいろんな人)も頭数に入れて考えてみてもらうことは難しいのだろうか。
同じように選択の自由があっていいはずだし、選択の自由があるからこそ“平等”だ。

じゃあそこを少しでも平等にするために何が必要かというと、中盤で書いた「必要時間の多さ」を、システムとして少しでも縮めること
「これは整備できないから手伝ってあげてください」とかいう誰かの優しさに甘える整備ではなく、どうしたらシステムで解決できるかという視点になること。

例えば映画館であれば、「手伝うための専門の従業員を配置する」とか、「車椅子対応席を特殊スクリーンにも作る」とか、「車椅子対応席を様々な位置に作る」とか。
例に出した駅であれば、「どの改札も広くする」とか。
もっというと、すべての席や改札がどんな人でも使えるようになると、必要時間が多い人にとっては短くなり、全員の選択が平等に近づく。

完全に“平等な選択権”になれば、障害者割引チケットなんてジャンルは必要なくなると思うし。(障害者割引で安く見れるからいいじゃん!という意見も見かけたけど、私の場合は同じような選択の自由があるのであれば、喜んで同じ料金払いたいよ。)


善意に甘えたいわけじゃない

本当にずーっと考えがまとまらなくて、言いたいことが山ほどあって、結局まとまりのないものになってしまった。

私が言いたいのは、迷惑をかけたいわけではないし、誰かの手を煩わせたいわけではないということ。
でも社会で生きていて、実際のところ“現場の善意に頼るしかない”システムがまだまだたくさんあるのだ。そりゃ、ひと昔前の障害者は外に出ないよねと思う。今は随分街に出るようになりましたね。

「現場の誰かの善意に頼っている」と、双方がもやもやしなくて済むシステムになってほしい。
車椅子席があるから良いでしょ!で思考を止めないでほしい。
それは誰ができるのかというと、やっぱりシステムを構築したり改良する“偉い立場の人”、もしくは“よく見えている現場の声”だと思う。

だから、私も社会で生きる一人の人間として、これからも周囲への感謝を持ちつつ、必要な手続きを踏みつつ、時には考えて発信しながら、臆せず街に出ます。
そしたら私の後に出てくる車椅子ユーザーがもっと楽になるかもしれないし、私の未来がもっと良くなると思うからね。
ライブもコンサートもイベントも飲みも旅行もするよ!せっかくこの社会で生きてるからね!


……なんかエレベーター問題の方のこと全然書けなかった!
あと例のイオンシネマ騒動の人のこと、よく知らないけど全面賛成はしてないのであしからず!!
そしてイオンシネマの声明文にはちょっとほっとしました!もっと色々選択できる社会になあれ!

じゃ、おわり!☚ヤケクソ

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