さざなみ

この先 どこに行こう
どこ行きたい?
何を見てみたい?
僕らの未来の話
そうさ 話をしよう

話をしようよ/なにもの

ずっと、苦しかった。「今」を大切にしてくれていることはわかっていて、その上で自分も「今」を大切に生きていて、だけどなぜかずっと、苦しかった。ついていくのに精一杯で、共に走るなんてもってのほかで。少し寂しくて、少し、悲しくもあった。

13人には12人のかけがえのない友人がいて、それがずっと羨ましくて。いや今もずっと羨ましいけれど。そこに私という存在は必要とされていなくて、それが己の焦燥感にも繋がっていたのかもしれない。烏滸がましいことではあるけど。
彼らはわたしたちに、ただついてくること、後ろをついてくることを求めてくれる。

だから好きになって5年経った、もうさざなみになった好きな人が、相方と目線を合わせて少し屈んで、この歌を歌ったとき、涙が出てきた。「僕らの未来の話」に、わたしも入っていいんだ、と思った。「未来」に、一緒に連れて行ってもらえるのか、と。
愛され方ってきっとそれぞれで、どれが正解だなんてあるわけがなくて、どれもきっと正解で。その中でわたしはいま、「今」を大切にして、少し先を走ってくれる愛し方をする、彼らを自分の意思で選んでいる。選んで好きになって、そこに対する責任を持ちたくてだけど寂しくて悲しくて苦しさもあって。

そんな時は思い出すんだ、目を閉じて、心の中にさざなみを探す。そうすればほら、見つかる。「未来」を一緒に描いてくれる、少し屈んで、目線を合わせて歩んでくれた彼ら。
もう穏やかになってしまった気持ちだけど、穏やかになったからこそ、拠り所になってくれることもある。
好きだった当時はついていけなくて寂しさを覚えることも沢山あったはずなのに、時間というのは不思議なものだ。雑音が当時よりずっとずっと多いのに、わたしの気持ちはあの頃に比べたらずっと平穏なんだから。

自分の好きにくらい、自信を持ちたいし責任を持ちたいんだけどどうも上手くいかなくてどんどん自信もなくなって、このままでいいのかな、って思うときって結構ある。そういうとき、またこの歌を聴く。わたしが未来の話をしたいのも、どんな風に聴こえてるか、届いてるか、それを伝えたいのも13人にだということをゆっくり確認する。上手くいかなくたって大丈夫、そう思えるまで。そうやって少しずつ、ほんの一歩だけど、前に進んで、わたしは強さの仮面を被れる。

こういう気持ちを文章にすることってあまりないし別に人のものを見てたって面白いと思ったことないしわざわざ出すのもなあと思っていた。けれど「待ってるね」と言われたので出してみる。ほら、面白くないでしょう、つまらないでしょう。でもこれもわたしだから、わたしが受け止めてあげないとね。話していて、気付いたこと。

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