例えば、クリエイターだった友人が亡くなったとする
例えば……の話。自分の友人がケガや病気で亡くなったとする。友人は実名で活動していたクリエイターで、友人の名前で検索すればそれなりにたくさんの検索結果がヒットする……とする。まあ、たとえ話です。ちなみに俺の本名で検索しても何も出てきません。
友人の気持ちになって友人のエゴサーチをすると、2ちゃんねるのログの中にその友人の名前がたくさんヒットする。開いてみれば、もちろん応援するコメントもたくさんあるのだけれど、どちらかと言えば否定的な意見が多い。否定的な意見と言うか、罵詈雑言だ。直接、面と向かった時にそれを言ったら、相手はきっと怒ったり泣き出したりするだろうと思われる言葉も、匿名掲示板の上ではいとも簡単に繰り返される。
いわく「こんなひどい作品を世に出すなんて、恥ずかしくないのか、死んでしまえばいいのに」……と言わんばかりの酷い言葉の羅列。
本人がこれを読んでいなければいいな、と思う。まったく読まないでいられるくらいにハートが強いか、もしくは匿名掲示板に対する恐怖を持っていてくれたらいいな、と思う。そのぐらい酷い言葉がいっぱい。俺だったら絶対に耐えられない。
友人は亡くなってしまった(たとえ話だけれども)。だからもう、この罵詈雑言が読まれることもない。友人の作品を愛でて、懐かしんでくれる人だけが友人の名前を思い出してくれるんだろうと思うと、不謹慎だけれども少しだけほっとするような気持ちになる。
友人の作品を否定する文章。プロとしてお金をもらうレベルに至っていない完成度だ、だの。本来のテーマにそぐわない個人的な文章が多すぎる、だの。誰かの作品を無断で模倣するいわゆる「パクリ行為」だ、だの。友人の作品を否定する上で、「こういう理由だから叩かれてもしょうがない、この罵詈雑言には正当性があるのだ」と言わんばかりの強気の言葉たち。
俺は思う。何が気に入らなかったの? どうして放っておけないの? その正当性、正論のためにどうして人をそこまで悪く言えるの? 友人が何かした? あなたに直接的な迷惑をかけた? そこまで追い詰めるほどに、友人の作品は罪だったかしら? 逆の立場だったら、あなたは甘んじて何でも受け入れる? 本当にそう言える?
友人は亡くなってしまった。これからもう、同じような酷い言葉で罵られることもきっとない。友人がここを読んで傷ついていたかどうかはわからないけれども、きっと書いた本人たちも、友人が死んだことを知れば、少しは気まずい気持ちに……。
……実は俺は確信している。ここ数年でたどり着いた確信だ。
2ちゃんねるで個人を罵倒してきた人、それこそ「死んじゃえばいいのに」ぐらいのことまで書き込んできた人は、実際にその対象が死んでも、ぜんぜん気まずくならない。「書かなきゃよかった」なんて1個も思わない。だって、自分の罵倒には正当性があったんだから。世に作品を送り出すってことは批評も受け入れる覚悟があるということなのだから。酷評、罵倒は当たり前。むしろ「有名税」だ。話題にしてもらっただけ感謝せねばならない存在だ。
だって自分が正しいのだから。この、正しい自分の警告を聞かずに、同じ過ちを繰り返すから悪いのだ。このインターネット社会に、つっこみどころを残したままで作品を上梓する方が悪いのだ。正しい者が、間違った者を粛清するのは当然のこと。エアコンの効いた部屋から、ありとあらゆる鋭い言葉で対象を追い詰める。執拗に、何か月かかってでもやる。相手は叩かれても仕方のない存在だ。だって悪い作品を上梓しているのだから。幸い、自分の攻撃にはコストはかからない。ネット環境があればそれでいい。
俺は思う。友人を口汚く罵った人たちが今頃、せめて後味の悪い思いをしてくれていたらなぁ。でも無理だ。彼らは自分の正当性に守られている。何一つ悔やんでなんかいない。いつでも同じことを繰り返せる。
あの2ちゃんねるに書かれた酷い言葉たち……。読めば実際には、直接的な罵りの言葉ばかりじゃない。ただその盛り上がりを面白がって、あおってみたり、相槌をうってみたり、自分の持っている別の情報をコピペしてみせて「燃料投下」を手伝ったり。具体的な罵詈雑言じゃないけれども、俺からすれば一緒だ。突き詰めれば、俺の友人を馬鹿にして、追い詰めて、物笑いの種にしている側に立って、面白がっていた奴らの仲間だ。同じなんだよ。お前らの「人を小馬鹿にして見下す気持ち」は、きっと友人を追い詰めたはずだ。
ここまで書いて気が付く。俺だって一緒だ。
もちろん俺は匿名の場で友人を蔑んで、実際に会った時にはそれをおくびにも出さず如才なく振る舞って見せる……なんてことはしないよ。対象が友人じゃなくてもしない。だって「自分がされて嫌なことは人にするな」って教わって育ったからね。人生において大事なことはだいたい両親から教わったよ。俺は匿名の場で特定の個人を悪く言ったりしない。作品が酷いんだからとか、有名税だからとか、そういうことで人を罵ったりしない。でもたぶん、究極のところでは俺も同じなんだ。
長い間俺は、「良くない作品への対応は、酷評ではなく話題にしないこと」にすべきだと言い続けてきた。良くないなと思ったら黙っていればいい。話題にならないことが一番の評価。「無責任な酷評がクリエイターに伝わってクリエイターが反省し、作品がより良くなる可能性」よりも、「クリエイターが傷ついて本当は世に出るはずだった作品が出てこなくなってしまう可能性」の方に重きを置きたい。皆が「評価に値しない作品は話題にしない」という評価方法に徹したら、きっと今よりもうまくいく、と思っていた。
でも……無理だ。そんな幻想、ユートピアだ。ありえない。うっすら、いや、実はわかっていたことなんだけど。そんなのは無理だ。「良くない作品への反応は、酷評ではなく話題にしないこと」なんて無理だ。人は皆、叩いても許されるものが目の前に現れるのを待っている。粛清しても糾弾されない獲物が飛び出てくることを望んでいる。
インターネットに罵詈雑言を書かれても、「つらいですけど……まぁ、あまり気にしないようにして頑張ってます」と言える強い人だけがクリエイターになれるのだ。そういう時代なのだ。「繊細で、酷評には耐えられないけれども、千人に一人の才能の持ち主」みたいな人は作品を上梓し続けることはできない世の中なのだ。俺はそうでない世界を望んでいたけれども、うっすら気づいていたことだけれども、そんなのは無理だったのだ。ちゃんちゃらおかしな戯れ言だった。金輪際、叩かれても平気な奴以外、クリエイターを名乗るんじゃねえ。甘いんだよ。
友人を悪く言うスレッドに面白がって書き込んだ人たちも、今頃は平気で「死んでしまって気づいたけど、思えば作品は嫌いじゃなかったな。ご冥福をお祈りします」ぐらいのことを書いているよ。twitterで偲んで見せて、数十秒後にバラエティ番組の話題をツイートしているよ。罪悪感なんて微塵も感じてないよ。
友人の死の原因が、ケガとか病気とかでほんの少しだけ救われるような思いだよ。これがもしも思い悩んで友人自ら選んだ結果だったとしたら、あまりにも悲しく、あまりにもむなしすぎるじゃないか。違ってほっとするよ。たとえ話だけどね。
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