幻聴

 夜。連日の徹夜続きで体はへとへとなのに、裕一は布団の中でもう一時間も眠れずにいた。八時間後にはまた仕事だ。次の休日がいつになるかわからない。今日は眠らなければ。大きく深呼吸をして、裕一は目を閉じた。

 蚊がいる。やっとうとうととしたところで、裕一は羽音を聞いた。蚊は右の耳のそばを通って離れ、また近づいてくる。裕一は無視を決め込んだ。放っておけばいい。
 右側。左側。そしてまた右側から、羽音。裕一は布団をかぶった。眠ってしまえ。眠ってしまえ。眠らなければならない。裕一は睡魔の到来を待った。
 ……暑い。額から脇から汗が流れるのを感じて、裕一は顔までかけた布団をはいだ。蚊はもう去っただろうか。
 その行動をあざ笑うかのように、羽音はまた右耳のそばにやってくる。近づいて、離れる。裕一はいらだち、顔を平手で強く打った。二度、三度。
 やたらに叩いただけだが、効果はあった。羽音は聞こえない。明日の朝、顔に貼りついた蚊の死骸に、鏡の前で笑うのかもしれない。
 安堵した矢先に、羽音はまたも現れる。
「くわーっ!」
 裕一は鶏のような奇声をあげて立ちあがり、蛍光灯をつけた。殺してやる。俺が息の根を止めてやる。髪を振り乱してぼんやりと浮かび上がった部屋の見まわす。
 窓のカーテンの上にゆっくりと飛ぶ黒い点を発見した。やつだ。殺してやる。盆踊りのように飛び跳ねては手を叩き、蚊を追った。
 やった。手応えはあった。しかし手のひらに死骸はない。どこかへ落ちたのだろう。大きく息をついて裕一は布団に倒れこむ。寝てやる。眠ってやる。そして訪れる羽音。今度は左右両側から。
「ぬおーっ!」
 裕一は飛び起きて押入の襖を乱暴に開け、両手で二本の殺虫スプレーをひっつかむと部屋中にまき始めた。歩きながら全方向に。口から、ひひひという笑いが漏れる。スプレーが空になるまで、指をゆるめることはなかった……。

 朝。裕一は咳き込みながら目を覚ました。枕元には止めたばかりの目覚し時計と、殺虫スプレー。喉がやけに痛い。何か不快な夢を見た気がする。カーテンを開けると一面、銀世界が広がっていた。冷えるわけだ。しかしこの真冬になぜ殺虫剤が? 裕一は寒さに身を震わせると、顔についた蚊の亡骸に気付かぬまま、トイレへと向かった。

 

(あー、これは1998年の2月に書いたものですね。ペンネームは荻野目洋。まず「幻聴」ってタイトルがお題として決まっててそこから書いたものですね。たぶんこれも1,000文字)

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