食べる・殺す・味わう --ハンニバル・レクターの問い

“むしろ私はそうした行為が好きだ。少なくとも自分でそうした血まみれ調理を経験すれば、人間の食がどれほどグロテスクなものかを自己嫌悪に陥るくらい納得することになるし、気取り返ったレストランでお上品にグルメを気取りながらも、調理場で見たらげっそりするくらい気味の悪いものを食べているという自覚を持つことができる。人間とは薄気味の悪い腹の中に薄気味の悪いものを詰め込みながら、奢り昂ぶって蘊蓄を垂れる生き物なのである。”
  --佐藤亜紀『陽気な黙示録』より

 些か遠回りだが、まず2017年のアカデミー賞を受賞しているディズニーの3D長編アニメ『ズートピア』のことを思い出していただきたい。
 そこで描かれていた、か弱い草食動物には不向きな職業だという無理解を跳ね除けて街の立派な警察官になることを夢見るウサギの物語の下敷きになっているのは、周りの獰猛な肉食動物(=男たち)と比べて一回り以上小さな体格差にもめげずにトレーニングウェアを着て山道を走り回る野外訓練の場面が同じく冒頭辺りに置かれているジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』であることはあまり気づかれていない。
 他にも細かいパロディを多量に含む映画になっている性質上、少なくとも元ネタの一つだという推測にすぎないわけだが、劇中世界がお子様とも一緒に鑑賞できるファミリー向け映画にフィルタリングされているため、多種多様な動物たちが共存するズートピアで頻発する「連続殺人」ではなく「連続行方不明」事件を捜査することになる、田舎の農場から「ウサギ初の警官」を目指して警察学校を卒業したばかりの主人公の名前が何しろ「ジュディ」である。『羊たち』で上司から「若くて綺麗な女性 pretty young woman」が情報を聞き出すために刺激になるかもしれないと捜査本部に呼び出された理由を告げられ、関係各所に連れ回されてお飾り的に扱われることに違和感を募らせるFBI実習生のクラリスを演じたジョディ・フォスターへのこのような目配せは、偶然にしてはできすぎている。

 さて『ズートピア』でも真相解明を手伝う相棒となる詐欺師でキツネのニックに「可愛いウサギを連れて行くにはお勧めできない場所だな」と呼ばれたジュディが「“可愛い”はやめて」と嫌がる場面があるのだが、さらに肉食獣失踪事件の広報を担当するのが「羊」のベルウェザー副市長だったといった符号はさておき、ここで本論に進む前に「草食動物が肉食動物を恐れなくなった未来都市」として擬人化されている世界観をもう一度おさらいしておくと、そのようにマジョリティ化した草食動物たちが克服したはずの過去の「天敵」に対する差別と偏見や恐怖感情を利用して人種(生物種)間の分断を煽る政治家が現れる、という昨今のポピュリズム的な動員を風刺した寓話にも読める。
 つまり肉食獣はかつて本能の赴くままに住民を食い物にしていた後ろめたさを抱えながら暮らすようになっている。そして奇妙なのは、劇中にはキャンディやアイスクリームなどのお菓子類やレトルトのニンジンといった食事が登場するのだが、肉食の彼らが何の「肉」を食べて生きているのかは巧妙に伏せられている、という詳しく描かれていない部分である。ジュディが配属されることになったズートピア警察署では、同僚のチーター警官がドーナツの食べ過ぎで肥っている場面があり、嗜好自体が変わってしまっている。食べる/食べられるために誰も殺されなくなった世界。

 そもそも米国各地を転々と移動して被害者の数を増やす「バッファロー・ビル」事件の犯人像を突きとめる捜査に博士が協力したのは、クラリスが親戚の牧場に預けられていた幼少期に遡って「夜明けに仔羊が屠殺される鳴き声」のトラウマ的記憶を引き出すのが目的だった。クラリスを無意識に悩ませていた羊たちの鳴き声が止む時が来たわけである。

 ここまで来れば、2016年の『ズートピア』が1991年公開の『羊たちの沈黙』を翻案する過程で脱落して抹消された重要なキャラクターが誰のことであるかは明瞭であろう。「他人の内臓を生きたまま食らう」のを好むため通称・噛みつき魔の異名を持つ美食家の殺人鬼、ざっくりプロフィールを紹介すると2003年にアメリカ映画協会の主催で「映画監督や俳優、評論家など1500名の投票による」ランキングを発表した「アメリカ映画100年のヒーロー&悪役ベスト100」の悪役部門で、3位のダース・ベイダー(『スター・ウォーズ』と2位のノーマン・ベイツ(『サイコ』)を抑えて1位に選出されたハンニバル・レクターである。

 俳優のアンソニー・ホプキンスが名脇役の地位を確立した代表作でもあるレクター像、「精神科医でありながらウィリアム・ブレイクの絵画やグレン・グールドの音楽など古今の芸術を嗜む頭脳派の連続殺人犯」と要約できるキャラクターは、主人公のクラリスが捜査の助言を得るために地下室の奥に収監されたレクター博士と対峙する『羊たちの沈黙』以降、1990年代の映像表現のみならず漫画・アニメの世界でも「猟奇犯罪者の心理学的プロファイリング」という設定の新奇さと合わせて幾多の亜流・パクリ・オマージュを増殖させた。

 例えば黒沢清は商業映画でホラーを試みる初期の作品『地獄の警備員』を撮る際に、主演の松重豊を台詞の無い無言の怪物にするつもりだったが、『羊たちの沈黙』の「完璧に知性があり、セリフもある怪人」レクター博士を観て「映画でこんな魅力的な怪人が成立することを初めて目の当たりにして、一気に、ちゃんともっともらしいことをしゃべるキャラクターに変わっていきました。」とそこから受けた影響を語っている。(『黒沢清の映画術』より)

 一方、原作者のトマス・ハリスが生み出した小説作品のシリーズ、『レッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』『ハンニバル』『ハンニバル・ライジング』は4作すべてが映画化されており、2013年から2015年にかけてはそのうちの『レッド・ドラゴン』をドラマ版としてリメイクした『ハンニバル』の放映がシーズン3まで続いている。そして続編の噂が何度となく流れつつも2018年の時点で未だ物語は完結していない。

 ともあれ『ズートピア』はなぜレクターを3Dの動物に置き換えられなかったのか、という冒頭の問いを今一度確認してみよう。街に蔓延る「狡猾で悪賢い一族」だというキツネへの偏見の目に抗えずに小悪党の道に進み、詐欺を働くようになったニックにしてもジュディの活躍によってあっさり改心してしまうので、支持率と世間の評判が下がるのを気にしてドラッグで凶暴化した同族たちを隠蔽しようとしたライオン市長にしても、裏社会でシロクマのボディガードを操るマフィアのトガリネズミ一族にしても、第二次大戦中のナチスドイツ軍の侵攻によって家族を失い、孤児の境遇に陥る以前はリトアニアの古城で父親が伯爵だった家系に生まれ育っているという貴族的な出自を持つレクターと比べて悪役として小粒なのは否めない。

 それに加えて制作当初のシナリオでは肉食獣の市民には興奮すると電気ショックが流れる「制御首輪」が嵌められている予定だったのだが、ズートピアがあまりに「抑圧的な管理社会」を連想させるディストピアに見えるのではないかとの懸念によりその場面が削除された、というエピソードと合わせて敷衍すると、地下病棟から別の刑務所へと護送する際には必ず厳重な拘束具と犬の「口輪」に似た金属製のマスクによって抑えられているレクターの旺盛な「食欲」がより際立ってくる。

 家畜を「殺して食べる」人間の営みに対して、担当する患者や「気に食わない国勢調査員」を次々に襲うレクターの犯行は「殺す前に食べる(生きたままの内蔵を……)」というように順序が逆転している。彼がそのような倒錯を起こすに至るまでの過去の悲痛な出来事は、大戦後のヨーロッパで医学生に紛れ込む青年期を描いた『ハンニバル・ライジング』で明かされている。そこでは1944年のリトアニアの山奥で逃亡中の反ユダヤ主義者かつ対独協力者でもある飢えた兵士たちに目の前で家族を殺された夜の記憶喪失から食欲を「回復」する過程に遡る。とはいえ、観客の食欲を失わせる物語ではある。

 ムカついた相手を殺す前にまず味見してしまう、このような順序の入れ替えを習慣化したハンニバル・レクターの「美食」への欲望はエラーを起こしている。民主主義的なみんなに「正常」とみなされる人間の食べる行為が、戦争中の飢えた同国人に両親と妹のミーシャを家畜のように殺された出来事のショックで変形されたものだ。

 2017年7月のゲンロンβでの東浩紀との対談『日本で哲学をするとは アンスティチュ・フランセ東京「哲学の夕べ」ガーデントーク』で、東から投げかけられた「貴族的な哲学の復興」というテーマについて語っている國分功一郎は、素材の良さだけでなく店のある場所の地価にも左右されて高い値段で出されたり伝統的な礼儀作法に則るなど「自らの価値をいくつもの盾によって守られている」A級グルメと違って、うまいかどうかは食べてみないとわからない「B級グルメにおいてこそ、我々はうまさの問題、味の問題に直面する。」と提起するテキスト「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」で、視覚や聴覚と比べて直にものに触れる「食」の分析が低い地位に置かれている西洋美学/哲学の伝統異議を唱え、「食の問題を正面から扱った思想家」としてシャルル・フーリエを取り上げている。

 そして、スピノザ的に「事物をその結果ではなく原因から定義する」と、「ファスト・フード」化してすばやく済ませられるようになった現代の食事情に対抗して「ゆっくり食べる」ことを称揚するスロー・フード運動とは「味わうのに時間がかかる情報量を含んだ食べもの」であると定義した方がより正確なのだから、別の呼び方に変えるべきだ、というのが表題の主張である。
 國分はそこで「牛肉の強いクセと豚のさわやかさ」が混合されることで独特の味わいを出すハンバーグの合い挽き肉を具体例に分析を試みている。

“たとえば、質の悪いハンバーガーはケチャップと牛脂の味しかしない。情報が少ないのだから、口の中等々で処理するのは簡単である。全く時間がかからない。だからすばやく(ファスト)食べられる。
 それに対し、味わうに値する食事には大量の情報が含まれている。ハンバーグを例にとろう。ハンバーグを構成している主たる要素である合い挽き肉には独特の味わいがある。牛肉の強いクセと豚のさわやかさである。残念ながら今では強いくさみをもった牛肉はなかなか日本国内では食べられない。それ故にこの牛肉のくさみは忘れられつつあるが、牛肉は食材としてみればかなりクセのつよいものである。それに対し、豚肉はそもそも食用に改良された肉であることから分かるように、人間の味覚にとって受け入れやすい味であり、また穏やかな甘みをもっている。この両者を混合するところにハンバーグの驚くべき知恵がある。くさみが口のなかで刺激を与えつつも、豚肉の甘みがそれをうまく包み込む。ハンバーグを食するものはこの相補的関係を一口ごとに処理していく。
 ハンバーグには様々な調理法があるが、合い挽き肉に投入される別の要素として欠かせないのがタマネギである。
(中略)
 我々は社会を社会学的に分析して分かった気になるのではなく、フーコーのように更なる一歩を目指さねばならない。どうしたら各人の身体が情報量の多い食事とつきあえるようになるか。どうしたら各人にインフォ・リッチ・フードを提供される社会がおとずれるか。これはまさしく倫理=政治的な問題なのだ。
 「飽食」などという言葉が八〇年代に使われたが、それは飽きることができる程度のインフォ・プア・フードが提供されていたからに他ならない(おそらく当時は食事の価格がそのうまさと誤解されていた)。バルトはフーリエのこんな言葉を引いている。

 我々が間違っているのは、そう信じられていたように、あまりに欲望することではなく、あまりにわずかしか欲望しないことだ……〔Notre tort n'est pas,comme on l'a cru,de trop desirer,mais de trop peu desirer…〕。

 そう、我々はもっと欲望しなければならない。インフォ・プア・フードを餌のように与えてくる今の消費社会をはねのけ、インフォ・リッチ・フードをもっと欲望せねばならない。それは次の社会変革につながるのである。”
(國分功一郎「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」)

 ところで『中動態の世界』でも重要な役割を果たしているジャック・デリダは、共同体の起源には指導者(モーゼ)の殺人事件への罪責感があるとしたフロイトの精神分析に依拠しながら、豚にせよ牛にせよ羊にせよ何の肉を食べてよいかを定める習慣(戒律)とは人間が誰(どの動物)を屠殺してよいかを決める終わりなき宗教戦争を引き受けることでもあるとして、大量虐殺を主導したヒトラーの菜食主義(に潜むカニバリズムの否認、反転)というスキャンダラスな事実を仄めかしつつ、肉食に関してコメントしていた。
 「食べる」文化には「殺す」という出来事が含まれている(そこから人間であれ動物であれ他者を象徴的に血肉化する供儀の文化を持つ主体が『いずれにせよ食べなければならないのならば正しく食べる』とは?というように無限の応答=責任の概念と組み合わせられたデリダ哲学が展開する)。

“われわれの諸文化では、主体は供犠を受け入れ、肉を食べる。ここでは時間も余地もあまりないから、叫び出す人もいるかもしれないが、君にこう訊ねることにしよう。われわれの諸国で、自ら菜食主義者であることを公的に、したがって範例的に宣言しつつ、国家元首になるチャンスを、そのようにして「先頭」に到達するチャンスを待っている人がいるだろうか? 指導者は肉を食べる者でなければならない(彼自身が「象徴的に」食べられるためにだ)。”
“(原註)ヒトラーにしても、自分の菜食の習慣を範例として示したわけではない。それに、この眩惑的な例外は、ぼくがここで喚起した仮設に統合されうる。反動的で強迫的な菜食主義は、つねに、否認、反転ないし抑圧という形で、カニバリズムの歴史に書き込まれるのである。”
(ジャック・デリダ『「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算』)

 以上で辿ったように「食べる」から「殺す」という出来事の系列を排除しようとするインスタントな菜食主義が何となく、SNSに流れる憐憫の雰囲気で広がってゆく社会に「抑圧されたレクターの味覚」が回帰してくるのは必然だといえる、それこそ中動態的な能動と受動のパースペクティヴでは捉えきれない「出来事に身を委ねる」リアクションとして。
 ここで時間切れのため、「法の外にある」レクターの味覚を『暇と退屈の倫理学』の続編として「欲望と快楽の倫理学」が予告されている國分功一郎の哲学を使って読解する企図は充分には果たされなかったのだが、最後に付け加えると、リドリー・スコット監督によるシリーズ第2作『ハンニバル』で元患者で実験体として弄ばれた過去の因縁から自身を豚の餌にしようとつけ狙う富豪との対決をやり遂げた逃亡中に、航空機内で「機内食は口に合わない」と言って偶々クラリスの家を訪れたFBI機関の首脳から調達した自家製「弁当」を食べようとしているレクター博士と隣の席にいた子供の会話に耳を傾けてみよう。

 すなわちハンニバル・レクターの味覚は「物を受け取る能力を拡張する」ために必要な楽しむことの訓練が説かれていた『暇と退屈の倫理学』の結論である、思考を強制する「不法侵入」へと誘っている。
 どこから来たのかよくわからない(誰が屠ったのかよくわからない)プア・フードを半強制的に「食べさせ」られている生活に「慣れさせ」られている私たちは、ズートピアの住民を馬鹿にすることはできないのであり、いつか誰も傷つけず動物を殺す倫理と責任の問題を「解決」できるような理想の「新しい食べ物」を深く味わうことができるのだろうか、と。

「これか?君の口には合わんだろう」
「おいしそう」
「うまいよ」
「食べさせて」
「君は変わった子だな 機内食は まずい
“食事”とは 呼べない代物だから 私は持ち込むんだ どれを食べたいかね?
これか? いいだろう
ママが言うだろ? 私の母親も言った
“新しいものを 食べてみることが大事なのよ”と」
(『ハンニバル』より)

【参考文献】

・國分功一郎『中動態の世界』

・國分功一郎「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」、『民主主義を直感するために』

・ジャック・デリダ「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算 ジャン=リュック・ナンシーとの対話」、『主体の後に誰が来るのか?』

・滝本誠『きれいな猟奇–映画のアウトサイド』

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