『朝の連続テレビ「小説」論序説』補遺&解説

 ゲンロン批評再生塾2017年度の第3回「小説の『自由』度について」(講師:渡部直己)で提出した課題批評がこちらです。

・朝の連続テレビ「小説」論序説 おしん・あまちゃん・あらくれ

 そしてゲンロンカフェで7月12日に行われた講評&プレゼン用に結局使わなかった『おしん』/『あまちゃん』/『あらくれ』における主人公の動線の図がこれです↓

【スライド資料テキスト】

① 批評再生塾3期生が前回の講評で大澤聡氏にダメ出しされた点

・批評文の「型をインストールする」ための固有名(批評史)の参照の仕方がベタすぎる
・テマティスム(テーマ主義批評の方法)を使って書く人が1人もいなかったのでその流れが忘れられているのではないか

この2つを無理矢理やってみる

② 蓮實重彦の場合、夏目漱石や小津安二郎やジョン・フォードが対象になる

・1979年の「ジョン・フォード、または翻る白さの変容」は、「男たちの帰還」の物語である西部劇で繰り返し画面にはためく白いエプロン、これこそが原理的かつ限界的なフィルム体験である、とする蓮實の代表的なテーマ批評。

“フォードは、それを挿話の連鎖としてではなく、つまり物語としてではなく、画面の視覚的効果として提示している。その点にジョン・フォードの天才ぶりが潜んでいるのだが、その視覚的効果は、誰の目にも明らかでありながら、一度として語られたためしがない。では、その視覚的効果とは何か。疲弊しきった不運な男たちが地平線の向う側から戻ってくる瞬間に、それを迎え入れ、その運動を包み込こんで癒やしてみるかのように、きまって大きな白い布が画面の中央に翻っているのだ。そしてその大きな白い布は、男たちが動きをとめて旅の汚れを落し、重い肉体を椅子に埋めこんでからも、なお画面を横切って揺れ続けている。いうまでもなく、その翻る白さとは、女たちの全身を蔽うその広いエプロンにほかならない。そのエプロンが女たちの腰のまわりに豊かに揺れ動き、翻る瞬間に、閉ざされた空間は甘美な保護された世界へと変容する。ジョン・フォードにあってこよなく感動的なのは、物語的挿話としての帰還そのものではなく、この瞬間的な変容を視覚的に実現する翻る白さそのものである。”(『映像の詩学』より)
“思えば、『捜索者』とは、インディアンにかどかわされた娘を求めて西武を放浪する男の物語である以前に、エプロンが白く風に揺れる光景に憑かれた男の、失われた記憶の旅の物語ではなかったか。”(同)

・基本的に西部劇というのは砂漠でアメリカの原住民(インディアン)と戦う国民的英雄の物語だった。イタリア製のマカロニ・ウエスタンが出てきた時期から騎兵隊ではなくならず者のアウトローが主人公になるというジャンルの変質が起きた?

・要するに「フォードの西部劇は、徹底して閉ざされた世界で展開される不自由な幽閉者の物語だ。」というように男がエプロンをまとう瞬間に着目して「性別を超えた家庭劇」として読み替える批評。
“ジョン・フォードとは、たんに家の戸口で男たちの帰還を待つ女ばかりではなく、無数の男どもにエプロンを着させたことで記憶さるべきいかにも奇怪な映画作家なのだ。”(同)

③ NHKの連続テレビ小説のようなありふれたホームドラマを批評する意義

・1970年代のゴダールは『ヒア&ゼア こことよそ』以降、「テレビ画面に流れるパレスチナ難民の解放闘争(よそ)のニュースを眺めているフランスの日常生活(ここ)を分析するべき」だとして「家族と日常生活、夫婦と子供の政治学」を主題にした映画を撮り始める。

“彼に衝撃を与えたのは、フランスの家庭では家族が平然とパレスチナ難民の悲惨な映像を見、その映像が消費社会の無数の映像と同列に置かれ消費されてしまうという残酷な現実であった。/いかなる悲惨な映像をもたちどころに相対化してしまうブルジョワ的な日常的状況を批判するため、彼は先に撮ったパレスチナの映像をひとたび廃棄し、TVを眺めている家族の内側にある政治を分析すべきであるというメッセージをもった「ヒア&ゼア」を完成させた。”(四方田犬彦『テロルと映画』より)

・日常の一部に組み込まれている朝ドラを「異化」するには?
→「女性の一代記」という同じプロットを持つ徳田秋聲の小説『あらくれ』と重ねて分析してみる。

④ 大杉重男「徳田秋聲のクリティカル・ポイント」
 
・徳田秋聲の『あらくれ』は1915年1月から7月まで読売新聞に連載されていた「新聞小説」だった。

「なぜこの時期に秋聲は、これらの作品を書けたのか。もちろんそれは秋聲の文学的成熟が前提となるが、同時にメディアの側の受容環境の問題を考慮することが重要である。」と問いを設定する大杉重男は、秋声が断続的な描写の集積を特徴とする「面白くない小説」を連載できたのは、夏目漱石が「広告塔」を務めていた明治期の朝日新聞に比べて読売新聞はメディア戦略が出遅れていたため、正宗白鳥が編集部員だった時代の文芸欄では読者受けしない「自然主義」の作家に「何の文句もつけないで、しまひまで自由に、面白くないままに」書かせられる環境だったからだと指摘している。

“にもかかわらず「自然主義」が一時「読売新聞」で繁栄したのは、「読売新聞」のメディア戦略が「朝日新聞」より遅れ、かつ混乱していたからである。/白鳥は「読売新聞」上層部の無戦略に乗じる形で確信犯的に「自然主義」文壇の形成に努めた。”(「徳田秋聲のクリティカル・ポイント」、『21世紀日本文学ガイドブック⑥ 徳田秋聲』より)

“漱石にとって「朝日新聞」に連載された小説に描かれるべきなのは「人間」であって、たとえば「野獣」であるべきではない。漱石の危惧を招いたのは、直接には「あらくれ」後半における性についての記述だったかもしれない。「読売新聞」は当時部数は数万部であり、文学に理解のある新聞としての伝統があり、「新聞商品化の時代に超然」としていたからこそ「あらくれ」が連載できたが、既に数十万部の部数を抱え急成長しつつあった「朝日新聞」では「所謂露骨な描写」は許されない。”(徳田秋聲のクリティカル・ポイント)

・ちなみにNHKの「連続テレビ小説」の由来は、“もともとは、毎朝届けられる新聞掲載の小説が庶民の日々の楽しみだった時代に、ラジオで毎朝、小説を読んだ気分を味わってもらおうと放送され好評を博した「連続ラジオ小説」が原型。(中略)放送開始当時は、テレビ「小説」というネーミングのとおり、ナレーションによる状況説明が多用され、視聴者が朝の忙しい時間帯に耳だけで聞いていても話が分かるスタイルに特徴があったが、最近は説明的なナレーションが減少し通常のドラマの体裁に近づいている。”(古崎康成「テレビドラマを楽しむためのキーワード集」、『ユリイカ』2012年5月号「特集*テレビドラマの脚本家たち」より)

⑤ 『おしん』/『あまちゃん』/『あらくれ』における〈紅白〉と〈ブルース〉の対照

『あらくれ』=主人公が家を飛び出す事あるごとに繰り返し「蒼い皮膚」「蒼味を帯びた顔」「蒼ざめた」という描写が使われる。
『連続テレビ小説』=故郷から出発/へと帰還する場面で「送迎の身振り」の演出でセットや衣装で紅白の色彩が使われる。

お島は年取った人達のすることや言うことが、可恐しいような気がしていたが、作の物を貪り食っている様子が神経に触れて来ると、胸がむかむかして、躰中が顫えるようであった。旋てふらふらと其処を起ったお島の顔は真蒼であった。(『あらくれ』二十一)

“ここで『あらくれ』の場面中、お島が癇癪を起こして家を飛び出す事あるごとに「争闘に憊(つか)れた」「躰の顫(ふる)え」とともに「蒼い皮膚」(七十四)がフェティシュに描写されてある事実に目を凝らしてみるならば、このようにして不健康なイメージの顔色を負わされていた散文中で蒼と震えが不意に結びついて思いがけない官能的な「弾力」が躍動する表情へと変貌してしまう小説空間においてこそ、物語の軛から逃れることすらも言葉で書かれてある通りにしかできないアンチ・ヒロインが現れているのではないだろうか。”(『朝の連続テレビ「小説」論序説』本文より)

⑥ 翻る紅白の変容

“つまり、連続テレビ小説のヒロインたち、(中略)「帰るべき日常=身の丈に合った幸せ」を毎年ループし続ける彼女たちは、劇中で展開する「激動の人生」の出発地点とゴール地点(そこは大概、「家」と「外部」の中間地点としての「駅」、もしくは人生の節目を刻む「新年の寺社」や「式場」に場面設定がされている)においてお約束の瞬間を待ち望む国民=多数派の視聴者たちからの画面越しの祝福を授けられる定めに従って、必ず〈紅白〉の帯を自身の周囲に纏わなければならない運命を生きているのである。”(本文より)

・沖縄を舞台にした2001年の連続テレビ小説『ちゅらさん』でも東京で看護婦になった主人公が婚礼の式で内地と同じウェディングドレスを着るのか、沖縄に代々伝わる民族衣装(琉装)を着るのかで悩むというポストコロニアリズム的なエピソードがある。
・「式典用の室内の壁に張られた幕や衣装の柄としてもはためく〈紅白〉の縞は連続テレビ小説のシリーズで必ずと言っていいほど登場している。」のだが、単純に、国旗の日の丸のパターンと同調しているナショナリズム的に意味がある色だとすると、蓮實重彦的な「画面に写る無意味な記号の共鳴」ではないのでは?というツッコミ所

⑦ 1980年代に世界的に大ヒットしたドラマ『おしん』には少女がひたすら可哀想な目に遭うのをエンターテイメントにする、でその「努力と辛抱の涙」が社会的成功への道になっているという日本のアイドル文化が抱える問題が凝縮されている。この傾向は韓国映画でも類似している。
 しかしパク・チャヌク監督『お嬢さん』のように、弱者と強者が反転する復讐劇などメロドラマの構造に洗練がある一方、日本映画だとベタに可哀想な子供の話になってしまう。

・2013年に上戸彩(おしんの母役)と稲垣吾郎(父役)でリメイクされた映画版『おしん』のヤバさ、宣伝のキャッチコピーが「日本は、この涙で強くなった。」

明治時代の農村における「口減らしのために7歳の子供が奉公に出されてこき使われる」エピソードをそのまま現代的な少女漫画原作の中高生向け純愛映画で埋め尽くされた日本映画の文法(つまりガーリーな夢みるアドレセンスな視点)で映像化すると不味いことになる、というミスマッチな演出に関しては冨樫森監督は確信犯だと思う。日本の過酷な労基法がなし崩し状態の労働実態の100数十年間に渡る変わっていなさ、というアイロニーが含まれていると解釈できなくもない。


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