幽霊のカメラ目線 クロサワキヨシ的アイドル論

“私は女優 26歳 いつからこんなことを始めたのかしら 今キャメラが回っている
みんなが見ている 目 無数の目があたしを見ている あ、沖の気配が変わったわ
光が薄れ雲が、そうだ私は泣かなければいけない 泣く もう長い間泣いた記憶がない あの時から あ、雲が崩れる 通り雨だわ”
  --吉田喜重『告白的女優論』より

麻生久美子

 今のところ、黒沢清の作品に出現した幽霊はすべて動いている。物陰でただ佇んでいるだけにしても、こちらに向かってゆらゆら上体を振り乱しながら襲いかかって来るにしても、3次元空間上の人間に近い姿を借りてあの世から再来する「生きてはいないが消えてもいない」像として目撃されている。

 ……という事実を改めて確認してみたのは、「映画」監督を職業にして撮っている以上一見当たり前のようだが、逆に言えば黒沢の映画内世界に画面の隅をよく探さないと顔が浮かび上がってこないほど不随意的に偶然写り込んでしまった心霊写真は存在するのか? ということである。

 ひとまず2009年に早逝した小説家の言葉に迂回するが、『伊藤計劃記録』に収録されているインタビューで第ー作目の『虐殺器官』を執筆するにあたって黒沢清の作品からインスピレーションを受けた(「CURE」は発想の根幹にある映画です。」)と語っている伊藤計劃が書き残した、「我々の理解も想像も絶した領域の、此岸への侵食の予兆。それは初期のスピルバーグ作品から時折描かれてきたモチーフではある。」と画面のどこかに常に「イメージ」として見え隠れしてきた「向こう側」の存在を読み解くスピルバーグ論を借りて言うならば、つまり「侵略する死者たち」には何らかの振り付けがなされている。

 幽霊ではなく宇宙人の場合であれば、今年公開された『散歩する侵略者』のパンフレットに載っている、冒頭から宇宙からの「侵略者」に身体を乗っ取られた人物として血まみれで登場する立花あきら役の恒松祐里のインタビューでは、黒沢清の演出は「あきらはまだ人間をよく知らないのだから、力の加減も分からないし、実験をしている感じで笑いながらやってみて」と撮影現場に入ってから造形し始める前の段階では「僕にもまだよく分からないんだよ」と答えており、常に実験的な試行錯誤であることがわかる。そこで「人間の身体の色々な部分ひとつひとつをよく知らないという感じを意識して、感情をあまり出さない」存在を憑依させて人と物の区別なしに破天荒なアクションで周囲を破壊し続ける恒松祐里の演技には「ずっと経験していたバレエが身体を動かすことに少しは役に立っているかもしれない」のだという。

 例えば『回路』の「この世のものならぬ動き」で迫ってくる幽霊はダンサーが演じている。『黒沢清の映画術』でインタビュアーの大寺眞輔と安井豊からの「あの実体化した幽霊、前衛舞踏のような歩き方はどのように演出したんですか?」という質問に対して、監督はこう答えている。

「一番特徴的なのは黒い服を着た女性の幽霊だと思うんですけど、昔から知っている友達の北村明子さんというダンサーがやっています。かなり舞踏に近いダンスをする方で、会うたびに、「私は『リング』の貞子より怖い動きができます。ぜひ使って下さい」と言われていたんです。僕も満を持して北村さんを起用し、これでどうだ、とやってくれた動きです(笑)。彼女にとっては何てこともない動作ですが、普通の人にはなかなかできるものではありません。」
(『黒沢清の映画術』)

 同署の「全フィルモグラフィー」に載っている幽霊役のキャストは北村明子、基常結子、狸穴善五郎、安田理央、塩野谷正幸というクレジットになっているのだが、彼女らがどのような演技で動いていたのか「死者たち」が現れる映像を一旦詳しく見てみよう。

 解体現場の作業員役の哀川翔が廃工場で偶然発見してしまった「あかずの間」の作り方が「幽霊に会いたいですか」というメッセージを表示したサイトから不特定多数に送信されていき、「霊魂の受容エリアが臨界点に達してこっちの世界に進出」してきてしまう「馬鹿げた単純な装置」であるこの世とあの世が通じる「あかずの間」が主人公のミチ(麻生久美子)が通りかかる近所のアパートなど次々と街の至る所で増殖していく物語である『回路』本編の27分辺り、仕事の連絡が途絶えた同僚の田口が住む団地を訪ねた矢部(松尾政寿)が1階に赤いテープで囲われた「あかずの間」を見つける場面で、テープを剥がしてドアを開け、辺りを見回しながら黒いソファのある突き当たりの壁の近くまで足を踏み入れる。
 そして部屋の奥から自分が通ってきた入り口を振り返ると、向かい側の暗がりに突然現れた黒いスカートを着て黒いパンプスを履いた幽霊がゆっくり矢部の視点に向かって歩いてくる、と見せかけて顔だけをこちらに固定したまま途中でガクッと力が抜ける動作を挟む。驚愕して床に崩れ落ちた矢部は背後のソファの下に隠れようとするが、下の隙間から足が見えないカットに続いて背もたれの上から徐々に手が這ってくる画面に切り替わり、さらに仰角のバストショットでソファの向こう側から幽霊の顔が上がってきて矢部が絶叫する顔のアップに切り返す場面。そこで襲われた矢部は自分の部屋で首をくくって壁の染みになった田口と同じ状態に変わってしまう。

 ミチや田口と同じ観葉植物販売会社の同僚である順子(有坂来瞳)が幽霊に襲われた後、コンビニで水とパンとポテロングを会計しようとして「すいません」と声をかけたらレジの奥にある電子レンジの奥から店員の幽霊らしき影が見切れているのに気づいて麻生久美子が走って逃げ出す場面。

 買ったばかりのパソコンから謎のサイトに辿り着いた大学生・川島(加藤晴彦)が後ろ頭を向けた背後を一回通り過ぎた後、外に出ようとした加藤の前に立ちはだかってゆらゆら揺れる動きをする幽霊に遭遇するゲームセンターの場面。

 麻生久美子と二人だけ生き残って自動車で港へ逃げようとするラスト近くの廃工場で、ガソリンを取りに帰った加藤晴彦が転がった蓋を探しに工場内のあかずの間に入ってしまい、「長い……死は永遠の孤独……だった……助けて……助けて……長い永遠の孤独……」と喋りかけてくるニュータイプの男性型幽霊(黒い輪郭で顔だけが白い)が物陰から一歩ずつ忍び寄ってくるので「捕まえてやる、そしたらお前は消える!」という思いつきを実行に移すと黒い体を触ってしまう。驚いて床に倒れた加藤に向かってまたゆらゆら揺れながら一歩ずつ上から覆いかぶさってくる幽霊のカメラ目線(顔がぼやけているが、ゆっくり近づくにつれて黒目しかない見開いた両眼に焦点が移動する)のアップ、と口をあんぐり開けて放心状態に陥った加藤晴彦の顔の切り返し。

 近作の『岸辺の旅』では、台所で湯気を立てながら白玉を作っている薮内瑞希(深津絵里)を捉えるカメラが徐々に左側にパンして真ん中に垂直の柱がある無人の空間の広がりを示すタイミングに一拍遅れて、反対側の視点からのカットでその方向を振り返ると、部屋の左側に死んだはずの夫(浅野忠信)がコートを着て立っている。「おかえりなさい」と声をかけると、「どれぐらい経った?」と口を開くので「……3年。」「急に来て驚いた? 俺死んだよ。富山の海でね、」という会話が始まる。

 記憶を辿る旅に出ている夫婦を迎えた島影さん(小松政夫)が住んでいた新聞屋の次の中華料理屋で3人目の幽霊が現れるのは、ピアノのある2階の部屋で女将さん=フジエが「ほんの一瞬でいい、私あの頃に戻りたい。それで、心からマコちゃんに謝りたい。叩いてごめんね、ピアノ、弾きたかったんだよね」と30年前に病死した妹の記憶を反芻する場面である。その幽霊はピアノを教えようとする深津絵里に言われた通りにずっとそこに置き去りになっていた楽譜「天使の合唱」を最後までうまく弾けるようになると後ろを振り返って笑い、それを見守る深津が涙を流している次のカットで消える。

 山奥の村で風邪をこじらせて死んだ星谷薫(奥貫薫)の「目が見えなくなって自分のことがわからなくなっている」夫は、まだ未練のある妻を向こう側に引きずり込もうとしてジャンプカットで森の中を瞬間移動する。

 といったように、1999年に制作された『降霊』から2015年公開の『岸辺の旅』まで、約15年分の映像を見返してみて気がついた幽霊の出現パターンは、以下のような特徴が挙げられる。

・登場人物が気配を感じて振り返ると、棚の影や窓の向こう側から見切れている(『降霊』『回路』『叫』)
・捕まえようとすると逃げる(『回路』)
・壁の染みや手の跡、カーテンを揺らす風、手を触れずにドアをギィィィと開けたりするなど、何らかの物理的痕跡を残す(『降霊』『回路』『叫』)
・すぐに消えない場合は、精神を取り乱した役所広司に殴られたり妻の深津絵里を抱擁したりできるような人間の体に近い何らかの物質的支持体へと変化する(『降霊』『岸辺の旅』)
・カットとカットの切れ目を飛び越えて瞬間移動する、つまりコマとコマの「間」に遍在する(『降霊』『LOFT』『叫』『岸辺の旅』)
・脅威を感じて逃げてきた登場人物の目の前の水面から浮かび上がる(『LOFT』)

 いずれにせよ以上からわかるように、黒沢清のホラー映画における「死者」はカメラアピールに長けた存在、として演出されている。
 ふと気がつくと先回りして隙間からこちらを覗いているということは、その空間から見えるカメラ位置(登場人物の主観視点)の方向を的確に把握しているということである。なおかつ『降霊』にしても『回路』にしても、劇中で堂々とカメラ目線を許されているのは人間的レベルの外にいる幽霊たちだけである。

 ここで、『ゴダール・レッスン』のエピローグに収録された映画批評で佐々木敦が小松弘の『起源の映画』を参照して言っているように、リュミエール兄弟が商会を立ち上げて撮影・上映を可能にする機械=シネマトグラフを普及させようとしていた時代には存在していたそのような視線は、現代の一般的な劇映画のリアリズムにおいては抑圧されている。

「私たちが次に出会うのは、スクリーンの向こう側からまっすぐこちらを見つめる「目」である。現在ではアマチュア劇映画での無意識にプリミティヴな「切り返し」(でなければ小津安二郎の「引用」?)か、登場人物が観客に直接語りかけるという、ある種のメタ映画的な手法でしか見ることの出来ない、画面に対峙する者全員と見つめ合ってしまうあの「目」。(中略)
 『起源の映画』の小松弘によれば、彼が「古典的システム」と呼ぶ、現在にまで連なる「映画」の基底的-規範的な文法構造がほぼ確立した一九一五年頃より以前の映画には、画面の中の人物が観客=キャメラを見つめることが屡々あったという。(中略)言うなれば「映画」はこうしたイディオムを抑圧することによって成立してきたわけである。そしてそれは私たちの言葉で言えば「見えないこと」の、すなわち「見ること」の問い直しの抑圧、隠蔽、排斥ということになりはしまいか。もしかしたら記憶違いかもしれないが(そうであっても一向に構わないが)、リュミエールの『列車の到着』で、ただ一人私たちの方を見つめていたあの少女、彼女の末裔がもっと沢山いたかもしれないのだ。彼女たちは、「真実の目」の持ち主たちは、いったい何処へ消えてしまったのだろう?」
(佐々木敦「盲目の主題による変奏」)

 そして1990年代末のJホラー・ブームの渦中にカメラを見返すどころか、その視線を遮る映像の界面を突き破って「呪いのビデオテープ」を再生した視聴者のもとに襲いかかる幽霊=貞子として蘇ってきたわけである。

 中田秀夫監督の『リング』で不審な超常現象を調べていた高山(真田広之)が井戸が写っている映像を「見てしまった」一週間後に貞子がテレビ画面から這い出てくる場面では、目が合うだけで呪い殺される邪悪な視線として眼球のアップが大写しになるインパクトが劇場の観衆を驚かせた。

 渡邉大輔は『ゲンロン5』の「幽霊的身体」特集で、『リング』の「貞子が念写したビデオテープ」を鏑矢にして『回路』のインターネット、『着信アリ』の携帯電話など、映画史を外部から取り囲むメディアテクノロジーが呪いの発生装置として扱われるJホラーの作劇について、「アナログフィルム=映画のアイデンティティが急速に相対化されつつあった当時のメディア環境を前提として、従来の映画的な幽霊表象に新たな歴史的含意を付与したジャンル」だとしつつさらにこう分析している。

「これもすでによく指摘されるように、90年代後半に誕生し、2000年代をつうじて流行したJホラーでは、作中に家庭用ビデオからテレビ、写真、監視キャメラ、携帯電話、インターネット、そして最近ではニコニコ動画からスマートフォン……などにいたる、いまの社会に氾濫する無数のコミュニケーション・メディアやアーキテクチャの複数性・多層性が物語の前面に押し出される。(中略)そこでは、ディジタル情報機器やモバイル端末に棲みつき、それらのメディア性をつぎつぎと攪乱してゆく「不気味なもの」=幽霊たちが描かれる。」
(渡邉大輔『「顔」に憑く幽霊たち--映像文化と幽霊的なもの』)

 この後渡邉は、20世紀のアナログ写真が体現していた、レヴィナスやアーレントが「倫理的かつ政治的な主体像」として重視した「単独的で個人的=非分割的な「顔」を伴った人間=生者」から今日のメディア環境における「数多のキャメラアプリで加工され、ネットワーク上の社会空間を漂流する大量の「無責任な顔」」のスケッチに移行し、それら「個々の顔はなかばは「人間」のものとして鑑賞者に露呈されつつも、もうなかばはある種の「幽霊化」や「動物化」、「モンスター化」といった複数の固有性をあいまいに(半透明に)」宿したものだとして、かつて「表象の政治=代議制民主主義」を担っていた「「顔貌性」のイメージの決定的な失効・変容を意味しているのではないだろうか?」という問題提起に至っている。

 アピチャッポンの映画にも見られるそのような21世紀の幽霊性は、「「いまここ」の現実・現在や物理的自然、あるいは人間=生者の身体とゆるやかに重なりあう」半透明かつ拡張現実的な親密さに変質しているのだという。

 このような「素顔と仮装、リアルとバーチャル……といった複数レイヤーが重層化」した半ゴースト・半モンスターが跋扈する映像圏のメディア論的条件に適合したジャンルがどのようなものなのか、ネットワーク上の拡張現実的な「顔」が前景化する文化を論じるこの文脈から唐突に、SMAPの木村拓哉がライブ中のステージから遠く離れたカメラの位置と動線のタイミングを完璧に把握して歌っている画面で振り付けを間違えずに即興的にウィンクを決める技を持っていることに驚いた年上の友人である明石家さんまが「お前何でそんなことできんねん?」と聞くと「プロですから」と答えが返ってきたエピソードが想起できる。ともかくインターネット上のブログやYoutubeにアップロードされた画像なりミュージックビデオやテレビ番組の動画の断片なりでイメージとして公共のメディアに自身を晒し続けるのが仕事である人気アイドルの場合も、情報技術の恩恵を受けて四六時中自らを「監視」するファンと仮想の接触を図る「顔」の演技が特徴だといえる。

 さやわかが『キャラの思考法』で生身のアイドルと仮想の初音ミクを並置して「新しいキャラの時代」を論じている定義を振り返ると、メディアの中のフィクションを生きているにもかかわらず、「ライブやCDの感想をその場で交換できる」という体裁でイベント会場で開催される握手会のみならず、アイコンタクトを発信して観客にレスポンスを返してくるパフォーマンス・スキルを日々鍛錬しているアイドルの持つ、虚構のレイヤーで二重化された身体性の目立った特殊性は虚実が入り乱れるインターネット空間で格好のネタ=話題になりやすいこともあって、様々な毀誉褒貶を呼び寄せてしまう。2014年にAKB48の握手会(いわゆる接触イベント)を狙った襲撃事件が起きて以降、「本人に直接会う」までのセキュリティが厳重に強化された結果、ライブ現場の周辺により物々しい雰囲気を纏いつかせることになった。

 人間と鏡像の関係にも似たズレを孕んだフィードバックを返す、他者(とり憑く相手)の認知を先取りしたJホラー的幽霊の空間移動能力は、虚構の約束を崩壊させて物語の外へと脱臼していき、「第四の壁」を乗り越えて「今ここ」で覗いている観客に体感的ショックを与える役割を帯びている点では批評再生塾で渋革まろん氏が繰り返し言うような映像メディアが演劇的想像力へと転回する前兆のようにも思える。

 この辺りで次第に、現代のメディア環境に蔓延るジャンルとしてよくよく見直すまでは安定した距離を保っていたはずの「幽霊」と「アイドル」の境界が揺らいできたのではないだろうか。次の主演女優に移ろう。

蒼井優

 2017年2月にアイドルユニットの虹のコンキスタドール/でんぱ組.incの一員、兼イラストレーターでもある鹿目凛がインターネット上のSNSであたかもデートしている食事の最中にテーブルで対面している相手のスマホで自然な「カメラ目線」のスナップ写真を撮られたかのような画像のアングルを発案し、2017年5月に洋画の吹き替え版でジム・キャリーやブラッド・ピットの声を演じていることでもおなじみであるベテラン声優の山寺宏一がアイドルのツイッターを真似した画像を投稿したことで広がった「#彼女とデートなう。に使っていいよ」というハッシュタグがあるのだが、プライベートの時間に撮った写真が流出するスリルを逆手に取った遊びであることもあって一時期局所的に流行していた。
 これをさらにホラー・バージョンに翻案したのがハロー!プロジェクトに所属する宮本佳林(を撮ってブログに載せた高木紗友希)である。

[2107年12月13日の「Juice=Juiceオフィシャルブログ」より]

 ところで、薬師丸ひろ子が主演の『セーラー服と機関銃』では黒沢清が助監督を務めていたという経歴上の接点もある、相米慎二監督の『東京上空いらっしゃいませ』では牧瀬里穂が不慮の事故で夭折した後、幽霊として蘇る歌手を演じていた。さらに「ぱるる」こと島崎遥香がAKB48を卒業する直前の2015年に次のステップとして主演した作品が中田秀夫監督の『劇場霊』であったように、もともとホラー映画とアイドル文化は互いに近接したジャンルなのだった。
 2016年に白石晃士監督による『貞子VS伽倻子』の公開に合わせて刊行された『最恐Jホラーヒロイン大全』に載っている一覧を参照すると、2005年に結成されたAKB48以外にも乃木坂46、ももいろクローバー、東京女子流、°C-ute、Berryz工房、スマイレージ、ゆるめるモ!……等々様々なグループが主演を務めてきた歴史が並行しており、つまり1998年の『リング』を端緒にしたJホラーは現在のアイドル・ブームの前史でもあったということである。

 2008年の『トウキョウソナタ』と2013年の『リアル』のあいだに位置する『贖罪』は、黒沢清のフィルモグラフィーにおいてちょうど35mmフィルムからHD形式のデジタル映像へと撮影機材が切り替わる転換期にあたる。

 15年前に1人娘のエミリを拐われた事件の復讐を企む母親役を演じる小泉今日子を主演にして2012年に放映されたこの全5話からなる連続ドラマ(後に劇場公開用に再編集された「インターナショナル版」も作られている)は、湊かなえの原作をアレンジして黒沢清が自ら脚本を書き、監督しているのだが、第1話「フランス人形」は「見ること」をめぐってのアイドル文化の残酷な一面を暴き出している。
 事件の目撃者の1人でエミリの友達だった主人公の紗英(蒼井優)は高校卒業後に東京に出て働いていたのだが、犯人が捕まっていない不安に苛まれるストレスによって初潮が来ないことに悩んでおり、「私は人のメスとして欠陥があるんです。理由はわかってるんです。頭の奥で、体が大人の女性になることを拒んでる」(劇中の台詞)と思い込んでいた。ゆえにどんな異性からの誘いも拒絶していたのだが、上司を介してお見合いの紹介状を送って接近してきた大企業の御曹司の孝博(森山未來)に実は同じ街の出身で小学校の同級生だった時から気になっていた(「僕もあの町はあんまり好きじゃなかった。暗くて、どんよりしてて。その中で、紗英さんだけが輝いてました」)と告げられ、互いの特殊な境遇にシンパシーを覚えてしまった縁で結婚することになる。

 繊細な陰りのトーン調整が見事な撮影監督の芦澤明子との組み合わせによって、十数年ぶりに再会した幼馴染みが新婚相手になった真顔で静かに狂っている夫を演じる森山未來に「生ける人形」として過去に実家から盗まれたフランス人形と同列に扱われて湾岸の高級マンションに幽閉されようとしてドン引きする蒼井優の演技には怪物的な迫力がある。

「僕は君を選んで、君は僕を選んだ。これは必然的なことなんだよわかるだろう? 15年前の事件は関係ないよ。君は、生まれつき普通じゃなかった。どうしてそのことを早く認めないんだ。男に体を委ねたくはない。しかし、男たちからはチヤホヤされたい。しかし、汚されたくなはない。だから人形ぐらいがちょうどいい。君はそう望んだんだろう? だから僕がそれを叶えてやったんじゃないか」
(『贖罪』)

 ここで観客が森山未來と蒼井優の「仮面」夫婦の生活が「変わった愛の形」だと一瞬納得しかける「好きな人のイメージを冷凍保存して半永久的に見続ける」というグロテスクな欲望は、紗英が生きた人間として床に血を流した瞬間に夫に用済みだとみなされたのを機に、マンションの一室で起きる惨劇に変わる。

 この結末は『LOFT』で別荘に幽閉されかかる小説家役を演じる中谷美紀が見舞われた、ゾンビとして動き回るわけではない半永久的に保存された死体=ミイラの呪いにも通底している。

 結婚式でウェディングドレスを着た蒼井優が小泉今日子と再会する場面では、「そのドレス、きれいなお人形みたいなドレスの影にいつも、それを着るエミリがいることを忘れないで」という台詞につられて15年前のエミリの幽霊が隣の背後で下から視線を向けて現れた後、振り返った蒼井優が後じさりするとすぐ消える。

 鬼の形相で「あんた達のことを絶対に許さない。何としても犯人を見つけなさい。でなきゃ、あたしが納得するような「償い」をしなさい。それが完了するまで、あたしは1分1秒もあんた達一人一人のことを忘れません」と5人の少女に呪いをかける母親役の小泉今日子は、過去と現在を往還してどこからともなく現れる魔女役に徹している。

前田敦子

 かつて私は『黒沢清、または「映画」という名の<処刑>装置』と題した文章で、こう書いたことがある。

「長谷正人は「「空っぽ」の反復という快楽――黒沢清の「CURE」」(『映像という神秘と快楽』)で、こう分析している。(中略)
「私たちは、理性を完全に捨てて空っぽになるという快楽にどうしても浸りきることができない」……。無意味な映像を意味づけるシネフィルたちのお喋りが(不安に駆られたように)一向に止められないように? 黒沢の『しがらみ学園』(1980)といった初期の8ミリ映画から一貫して登場するモチーフ――黒幕、閉鎖的な空間での陰謀、「誘惑する者」と「扇動される者」の関係性は、そのような『「空っぽ」の強迫反復運動』への欲望がバックグラウンドにあると思われる。その「病」は感染する。誘拐する。憑依する。反復する。……「世界の法則を回復せよ」(『カリスマ』)。例えば「映画を見るとは(……)いささかも無償の体験ではない。だから、見てしまったことの責任は、見た者がみずから償わねばならないのだが、その覚悟はできているのか。」と語る蓮実重彦は、近年の黒沢作品について、正確に「善悪の彼岸」を読み取っている。「黒沢清にあっては、あたかも機械的な反復がこの世界の原理であるかのように、誰もが、ふと他人の思考や行動とを模倣し、それをそっくり自分のものにしてしまう。そこには、宿命のいたずらもなければ、選ばれた者の特権もなく、他の樹木を模倣するかのようにぶっきらぼうに倒れていた「カリスマ」の木々のように、不意の反復が黒沢的な人物を造形することになる。この心理的な必然を欠いたほとんど機械的な反復が、個人と社会との関係をいくぶんか曖昧にしつつ、この映画作家を、いきなり「善悪の彼岸」に位置づけることになる。」
(蓮実重彦『映画崩壊前夜』)」

 これを読み返してみると、国民的グループ・AKB48に在籍していた前後の一時期はとある狂信者に「キリストを超えた」と主張するアイドル批評の奇書を書かせてしまうほどのカリスマ性を持っていた前田敦子を主演にして映画を撮るプロセスが仄見えてくるようである。

 パリのシネクラブに通い詰める映画マニアが海の向こうで作られたハリウッドのギャング映画に憧れて路上で撮り始める。アイドルファンがその熱狂的な愛が反転して自らアイドルになる、このゴダール=指原莉乃的な連鎖。

 前田敦子を論じる前に同じメンバーだったこともあり、2013年の「総選挙」で1位を勝ち取ってグループの代表曲といえる『恋するフォーチュンクッキー』のセンターポジションに就任した指原莉乃の講談社AKB48新書『逆転力〜ピンチを待て〜』に迂回するが、そこではイジメがきっかけで不登校だった中学生時代にネットを介してモーニング娘。にハマって行ったことが人生の転機だったと「自己啓発」が語られている。

「ネットの世界に飛び込んだおかげで「つらかったら場所を変えればいい。別の場所へ移動すればいい」と分かった、という話をしました。その考え方を元にして、当時中学3年だった私が必死になって見つけたアイデアが、大分を出てアイドルになるということだったんです。」(『逆転力』)
「私のアイドルとしての強みのひとつは、私自身がもともとアイドルオタクだったことだと思います。アイドル愛なら、誰にも負けない自信がある。
 その愛が完成したのは、初めてアイドルのコンサートを観た時かもしれません。小学5年生の時、大分のグランシアタ(現・iichiko総合文化センター)にモー娘。のみんなが来てくれたんです! お母さんに頼み込んで、2人で観に行きました。」(同書、〈観客だった頃の自分を忘れない〉)

 このような指原の場合のように、アイドルへの自己言及的な「愛」だけが空転していて突出した個性や才能を持っていない「空っぽ」なキャラクター性が前面に出ている方が、多種多様な「私たち」の集合的無意識が投影されるスクリーンとして機能し、爆発的に持て囃されてしまうのが、アイドルの宿命である。

 なぜか脱線してAKB48が秋葉原の街に誕生した物語を辿り直すことになっているのだが、テレビドラマや映画に出演するためのオーディションを通過しなければキャストに選ばれないという条件が決まっているため基本的に狭き門である「女優」と「アイドル」の違いは、そのカルチャーとしての伝染力にある。

 Berryz工房が活動休止を発表する寸前のシングル『普通、アイドル10年やってらんないでしょ!?』で「猫だって 杓子だって 名刺を作れば即アイドル/世界でもまれに見る 特殊な職業Jアイドル」と歌っていたように、どんな小さなステージでも新しい名前に「変身」してインディペンデントに始められてしまう。そのメンバーの1員だったアイドルのエピソードとして語り継がれているのが、テレビ番組で共演した出演者の楽屋に長々と決まり文句を携えて挨拶に来るたびに迷惑がられていたという際物的自己紹介と「ももちこと嗣永桃子」といったようなニックネームは、そのための儀式として機能している。

 ようやくAKBと映画史の交点に踏み込むと、その他の例でも常々私は「ファンの求める予定調和なイメージから一歩も踏み出す勇気がなかったアイドル映画は駄作」という法則が当てはまると思っているのだが、なぜかといえばそのコミュニティに共有された「日常そのままのキャラ」を固定して半ドキュメンタリー/半バラエティ番組的に写し取るのがファンサービスだという勘違いが映像作家側に起きていて、虚構(キャラと演技のダイナミズム)がないがしろにされているからである。
 「アイドル映画」というジャンルは、映画のシステムの中に役を演じるアイドルが部分集合として飛び込んでいくのではなく(アイドル⊆映画)、たまたま新規開拓できるアウトプット先の媒体がそれだったというだけの、アイドル産業に映画作家が飲み込まれている反転現象(映画⊆アイドル)が帰結しがちである。
 そうすると既成のイメージが塗り替えられないので「内輪」に閉じた縮小再生産の映画になってしまう。外部から演出する抑圧が無いことにはアイドルファンが大好きな「成長」や「挑戦」の物語さえも生まれてこない。
 その流れの究極が、「グループに実際にあった出来事」だけを撮った、ステージ裏に密着して演者とスタッフと観客席が一丸となって困難(全国巡業や大型ホールツアーで起きる諸々のトラブル)に立ち向かうアイドル共同体のサクセスストーリーをそのままドキュメンタリー化する趨勢であろう。

 では、黒沢清は映画監督として、かつて総選挙の会場で演説した「私のことは嫌いでも、AKBは嫌いにならないでください!」というフレーズでアイドル界に名を残している前田敦子のイメージに対してファンが求めるものの何を裏切ったのか。

 2013年に同題シングル曲の特典DVDに収録されている主演映画として撮られた『Seventh Code』は、秋子(前田敦子)が「1か月前に東京の六本木ですれ違って食事に誘ってくれた」男性である松永さん(鈴木亮平)の乗る車を追いかけて旅行用のキャリーバッグをガラガラ引きずりながらウラジオストクの街路の坂道を頂上まで駆け上がってまた降りてくるロングショットの長回しで始まる。

 この『Seventh Code』と同年の短編『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』をよく分析してみると、元アイドルから転身した前田敦子や三田真央を主演に据えた黒沢清のデジタル映画作品が、「幽霊」の表象を必要としなかったことの説明になる。
 しかし実際は、序盤の忍び込んだ組織の者に発見されてトラックの荷台に袋詰めの状態で運ばれて空き地に捨てられた後、泥だらけの顔で再び立ち上がる場面で既に死体になっていてもおかしくはない不穏さが漂っている。

 要するに監督・脚本を担当した黒沢清がここでやっていることは、それに続くシークエンスで辿り着いたレストランでボルシチを食べた代金も払えないほど何も持たざる駆け出しの出発点から強大なマフィア的集団(悪意が渦巻く匿名のインターネットコミュニティ)の暴力によって傷つき、仲間(メンバー)の犠牲を乗り越えてエンディング曲を歌う画面のセンターに昇りつめるまで再び立ち上がるアイドル・前田敦子の物語を、見慣れない風景が広がる異国の地で巧妙に異化して反復する、ファンの記憶をなぞる分身=亡霊化、である。前田敦子が最初にデビューした秋葉原の劇場が、「この窓から通りが見渡せますね……ここで働かせてください」と言って住み込みで雇われることになる、看板が読めない文字で飾られた小さなロシア料理店に変換されているわけだ。
 そして道端で「会いたかった……私、随分ひどい目に遭って、もう誰も頼る人がいなくなって、この先どうしたらいいのかわからなくなりました……」と上目遣いで駆け寄られるロシアでの唯一の庇護者としての松永さんが何の分身なのかといえば、次の場面で「あの変なアジア女を処分しろ」という組織の命令通りスタンガンを構えて近寄る松永を察知してベッドの端に座った前田敦子が振り返った顔のアップに観客の視点と重なったカメラが寄っていき、画面がそのこちらを凝視する視線で止まった直後に炸裂するローキック主体のアクションシーンは、「父殺し」ならぬ過去の「ファン殺し」の通過儀礼だったのだ。あっけなく蹴りで倒された松永の「君は何者なんだ……まさか……俺は騙されたのか……」というリアクションの言葉がその前田敦子の正体が鮮やかに何者でもなくなってゆく幻想性を補強している。
 最後にダイナマイトを抱えながら走るトラックの荷台で与謝野晶子の詩を叫びながら道路の奥に点のように遠ざかるまでをワンカットで収める場面に、主題歌の「目に見えるものは 世界の一部だってこと 教えられた/悲しみなら忘れられるけど 愛はなかなか消えやしないよ 僕が死んで灰になっても 愛しさはセブンスコード」という詞が重なってくる構成になっている。

 そろそろこの論を締めなければならないため、アイドルと幽霊のメディア論的並行性を簡潔に圧縮すると、以下のようになる。

・「透明感」が尊ばれる、浮世離れした存在への志向。言い換えると人間の生死を超越している(歳を取らない設定)
・非人間的なイメージとして信仰/畏怖の対象になる
・社会の周辺的・境界的な場所で目撃される(廃工場・古びた屋敷や町外れ〜湾岸のライブハウス、ショッピングモールの広場、人里離れたスタジオなど)
・特殊な身ぶり言語を操り、人間の姿を借りて観客(目撃者)に何らかの暗号的サインを送ってくる
・全国各地を巡業するイベントで匿名的集団を連れ回し、日常生活に混乱を起こす
・規範的な異性愛から遠ざけられている
・現れたり消えたりするタイミングの人知の及ばぬ不規則さでファン(とり憑かれた者)にショックを与える
・放っておくとどんどん感染者を増やし、メンバーやグループ自体も増殖・増員する
・派手な赤い服や花柄の服を好む(『叫』)

 だが、ここまで来ても『黒沢清、21世紀の映画を語る』での“映画作りとは「存在していること」と「見ること」とのぎりぎりのせめぎあいのこと”だという発言を踏まえつつ川崎公平が『黒沢清と〈断続〉の映画』で定式化している、「ワンカット」という決定的な単位によって歴史性が刻印されつつも、非現実的虚構のトリックと二重化されたイメージとして信仰/畏怖の対象になる「人間ならざるもの」を見ることにつきまとう「いかがわしさ」と向き合う作業は、まだ始まったばかりなのだ。

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