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DJのPC画面を見るのはマナー違反問題から考える正しい情報の読み方

どうも、アツアツ管理人です。

今回は大きく話題になったDJのPC画面を見るのはマナー違反問題について。

多くの反応があったこの話題から私達が学ぶべきは正しい情報の受け取り方と、日本語を適切に使うと言う心がけなのかもしれません。

件のDJ論の問題点

マナー違反とされているという表現にあるように受動態を使用したことで、業界の慣例や通年のようにデカく聞こえる所がポイントですね。

また、知り合い世帯だから許したけどと言う謎ルールに加え、個人に対して直接訴えれば良い話をわざわざオープンアカウントで全世界に訴えている所もポイントが高い。

全然許してないじゃないですか(笑)

マナーの論点がもしも、個人のプライバシーに関わる理由であれば、危機意識が足りないと言うか発言があまりにも安易なので中々香ばしく仕上がったと言えます。

公共の場で個人的な事情をいきなり話し出す時の声の大きさとして元ツイートのニュアンス、語気は適切だったのか、見つめていかなければならないのと同時に、我々もまた炎上案件から見つめられている事を自覚しなければなりません。

日本語の難しさを端的に証明している良い事例だと思いますので、私もつくづく気を付けなくてはいけないなと感じた次第です。

マナーではないがエチケットではある

さて、画面の覗き見に関して。

厳密に言うとマナーではないが、とはいえエチケットはあると考えています。

人間にはパーソナルスペースと呼ばれる概念があり、知らない人同士が近づける境界線はある程度決まっているそうです。

https://s-marriage.jp/service/column/28/

参考までにこちらのサイトをどうぞ。

13〜15インチの画面を同じように視認できる環境で見ると言うことはパーソナルスペースのかなり内側まで入り込む事を指しており、まぁ不快さを感じる事がないわけではないのです。

デューク東郷も俺の後ろに立つなって言ってますし。

ましてやブースは機材や配線が密集している訳です、その状態でDJ、VJ以外の第3者がブースの中に入ってきてPC画面見るって物理的にキツいですね。

個人的にはブースの広さにもよりますが、画面が見られる位置にいられるのは最大4人だと思っています。

DJ、VJ、転換準備中のDJ。あと、B2Bで入ってきているDJ。これが入れる限度です。

物理的キャパシティに制約がある中で何人もブースに入ると、事故の元になるわけですよ。ケーブルに足を引っ掛けただとか、お酒をこぼした、PCがスタンドから落ちただとか。

画面を覗く云々の前にブースのリスクヘッジ的な観点では確かにマナーと言えばマナーです。

しかしながら、業界の慣習と言う観点から見ると疑問符をつけざるを得ない。想定されるシチュエーションが多岐に渡る中で画面を見てはならないと一方的な断絶を言い渡されてもちょいと困るぞ、とそう言う話なわけです。

コンテキストの話

Twitterでは140字と言う制限の中で単文を投稿していくタイプのミニブログなので、文字数の関係上度々主語を抜いていきます。

その結果として、主語の抜けた文に表された考えがどういう対象に向けられているのか、が不明瞭なので、「この批判は自分に当てはまってくるのではないか」とか、もっと下手すると「このツイートはツイートを受け取った私を含む全DJに向けられて言っているんだ!」なんて事になりかねません。

意図を正確に読み取るにはコンテキスト、つまり前後の文章の文脈から何を伝えようとしているか、を類推する必要があるわけです。

こんな事、言われなくても簡単にわかると言う方はインターネット上級者。

センセーショナルな見出しだけ読んで中身を読んだ気になって論評する事は往々にしてあるわけです。時間はかかるけれどもきちんと噛み砕いてからのお気持ち表明は大事なわけです。

お手軽なメディアだけに文章を寝かせる、勢いにまかせた投稿していくと今回の事例みたいになりうる、そのリスクは誰にでもあると言うことを暗に教えてくれているのです。

コンセンサスの話

文章を読み解く上でもう1つ重要な事はコンセンサスです。

コンセンサスとは周囲における、了解や合意ということです。

コンテキストの補足的な説明で、我々が情報を受け取る際に文脈というものをぶっ飛ばして受け取っている傾向が強いのであれば、そもそも「ツーカー」(現在のKDDIがかつて行なっていた通信事業サービス、およびそのCMからきているもの。転じてツーと言えばカーというくらいに通じ合っている)や「阿吽の呼吸」と言ったものは全くのデタラメになるわけです。

でも、実生活では何故か「空気を読む」と言った行間や相手の心情を慮る能力が重要視され、また、我々は中途半端にそれができてしまうわけです。

中途半端にできてしまうのはコンテキストを通じて生まれたコミュニケーションを行う双方に合意、つまりコンセンサスがあるからです。

こと、アニクラにおいてはこのコンセンサスが全てにおいて重要視されているわけです。

それが優勝と言う単語だったり、「わかる!それな!」に通じる一連のオタク構文的なものなのですが、アレが成立するのはコンテキストを読み込んでいる者達同士が了解し合っている事を確認している、ハイコンテクストな文化です。政治的なツイートを見たなら、「アベはけしからん!」って言ってる連中とわけが違う。

ただし、コンセンサスが通用するのはあくまでもコミュニケーションを取った者達に限定されます。

(直接話しただけに限定はされないが、同じ内容を見聞きしたり、伝聞で伝わってくるなど同じコンテクストを共有していなければ発生し得ない)

受け手は勿論のこと、近年の発信する場合においては、コンテキストを丁寧に伝える事そのものよりかは、「○○とはこうである」みたいな概念のコンセンサスを固めないことには伝わる事も伝わらない、間違った意図が広まってしまうと言うことです。

おわりに

自分で書いていて無茶苦茶だなぁと思いますが、逆説的に言えば、「○○とはこうである」の真偽はともかくコンセンサスさえ取っておけばDJ論と言う形で燃えたりしない訳ですね。

コンテキストはコンセンサスの補強的な要素であり、コンセンサスをとっておかないと思わぬ方向へ伝わってしまうと言うインスタントなツールの思わぬ弊害、運用の難しさはあると思います。

我々は正確な情報を拾うためにコンテキストを読み解く必要があるし、発信者側はコンセンサスを得る努力をしなければならないと言うなかなか難儀で疲れてしまいそうな話でした。

映画、キングスマンでは礼節が人を作るというセリフを発した後に悪漢を懲らしめるシーンがあります。

実際コミュニケーションとは非常に繊細で難しいものだと思っています。仕草や言葉遣いで人となりが判断されるわけですから。

だからこそ、顔が見えないから何をどんなふうに言ったって良いわけではない、ましてや我々DJは屋号を背負ってあの場に立っているわけですからその事を忘れずに、対話の努力を絶やさない事こそがある意味、真のマナー、あるいはエチケットということになるのではないかと感じます。


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