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私の存在論(仮)

 存在するとはどういうことか。それは唯あるがままにそれがそこに在ることである。「あるがまま」ということはそこには一切の「価値」は介入しない。もう少し正確に言えば、その存在を知覚する者から自生してくる、一切の「価値」が入り込む余地のないという意味で「あるがまま」である。だからここでいう「存在するとはどういうことか」に対する回答は、自我論としてのそれとなる。
 存在には価値が付加されていることもある。が、それは私という認識主体に外在する“価値”だ。例えば「芸能人の○○のスキャンダルが発覚していたが、○○は人としてダメだ。」というツイートを見かけたとする。そこには「ダメだ」という負の価値づけがされているのであるが、それは私という認識主体からすれば「私」とは全く関係ない、言い換えれば外在する“価値”だ。つまり私にとってそのツイートは、その“価値”も織り込んだうえでの、ただそこに在る「存在」なのである。

 「価値」とは「私」から自生し、存在に投影されるそれであり、“価値”とは「私」とは完全に切り離されて外在するそれであり、存在に織り込まれて「価値」ではなくなったそれである。そして前段の文脈からすれば、「価値」とは存在とは本来相容れないものである。日常的に、しかしイリーガルに人々は互いに相いれないそれらを同一視している。

では欲望とは?これは「価値」を付与された精神という存在ではないだろうか。しかしこれも日常的に錯覚されてしまった、いわばイリュージョンである。何かを望むことを善悪で測ることは、常に社会的文脈で行われる。読書をするのは将来の仕事や学業に用立てられる、という文脈があるから「よい」のであって、人を殺すのはそれによって悲しみ、あるいは法で裁かれ、前科持ちということで社会的に閉じた存在になるから「悪い」のである。こうした文脈「以前」のことを、つまり「これを私は欲する」という生の、その発生源からゼロ距離の、欲望を果たして「善か悪か」で測ることはできるだろうか。
とはいえ「これを欲する」という以上、しいて言えばそれは「善である」といえる。しかしそれも「悪」という「善」と対立する「価値」を我々が適用するからそういえるのであって、それがない、つまり「悪」を前提しない「善」は、「悪」を知らぬ「善」は「価値」/“価値”として意味をなさない。イメージするなら、それは混じりけのない白、存在が存在するための虚無という有が、そこにのっぺりとそこに拡がっている感じである。

以上の存在論はここからエッセイ風に急旋回する。
 僕は「価値」に対して著しい倦怠感を抱いている。何かを評価し、「価値」を自己において生成し、投影し、他者と共有することに私は疲れてしまった。それは僕の僕自身に対する無力感からか、ごみのような情報が濁流のごとく流れてくるツイッターの見過ぎからか、理由はわからない。が、この倦怠感は確かに存在している。
 ところで、僕は数年前から新年のあいさつをしなくなった。何が「あけ」て、何が「おめでたい」のか、さっぱりわからないからだ。そんなわからないものに返事をする必要はない。挨拶をされても「うん」とか「うむ」とか適当な返事をするだけだ。だから今年の正月にはある場で「今後の抱負は毎日をただ生き延びていくこと、これしかありませんし、これしかないと思います」と言った(「今年の抱負」の発言を望まれるような場にいたからこういうことを言ったまでのことだ)。
 「毎日をただ生き延びていく」。それは毎日という時間の中で、そこに存在するものを存在するがままに見て、聞いて、そのように存在することを素朴に口にすることで自分の生命を充溢させていくことである。そして自生する欲望をそのように存在し、生まれて存在化したことを観測し、追認することである。
 ただ残念なこと(?)に、僕は「善」と、その対立する「価値」/“価値”としての「悪」を知っているから、今書いたように生きていくことはすぐにはできない。だから「今年の抱負」ではなく「今後の抱負」なのだ。一生かけてできるかできないか、あるいは近接できるかわからない、いわば賭けのような抱負である。そして僕はそう望むことを、そうした欲望の存在化を観測し、認める。

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