福田村事件

 映画『福田村事件』を吉祥寺まで観に行った。千葉県福田村(現在の野田市)で関東大震災の前後に起きたことを、実話(史料)をもとに再構成した映画ということくらいは調べて行ったわけだが、非常に見どころがあった。以下めちゃめちゃネタバレをするが(そうしないと文章が書けないから)、このつたない文章から映画を実際に観に行っていただけると幸いである。

 1923年に起こった関東大震災以後、東京を中心に「朝鮮人が暴動を起こしたり井戸に毒を盛ったりしている」というデマが流れたということは、高校で日本史を学んだ人なら聞いたことがあるだろう。だからこの映画でも「関東大震災」が話の筋になっていると思いがちだ、いや僕はそう思っていた。しかし実際に映画を観ると関東大震災はきっかけに過ぎないことに気づく。実際震災が起こっている最中のシーンはほんの数分だ。では何のきっかけか?それ以前から「大日本帝国」が朝鮮半島で行ってきた植民地支配に伴う朝鮮人差別意識の顕在化の、である。
 例を挙げよう。この福田村に住む村人たちは関東大震災が起こる数日前の日常的な場面で「鮮人」と言って朝鮮の人々を差別している。この映画にたびたび出てくる村の船頭は、はっきりと「俺は鮮人が嫌いだ」と口にする。
 また、この映画にはかつて「朝鮮」で生活し、朝鮮語も身につけて東京で仕事をし、福田村に帰ってきた男が、妻と共に登場する。この男は4年前、つまり1919年に朝鮮人だからという理由だけで朝鮮の人々が官憲に殺される場面を目の当たりにしたことを、妻に打ち明ける。
 そして忘れてはならないのが当時の大日本帝国で生まれ育った人々の「臣民」としての、「日本人」としてのナショナルな意識である。これがあるからこそ、それと対照的な劣等人種としての「鮮人」という差別意識が震災後という非常事態において顕在化する。この映画では在郷軍人会に所属する村人たちが多く登場する。実際「朝鮮人が暴動を起こしたり毒を井戸に入れている」というデマが村中に拡がった際には「我々の手で村を、家族を守るのだ」と言って志気を高める、あるいは香川からやってきた15人の行商人への「殺戮」ののちには、ある村人が「私たちは大日本帝国のためにやった(行商人たちを殺した)のです…」と悲痛な叫びを漏らすシーンがある。近代日本は日清・日露戦争、韓国併合などを経て、朝鮮半島を一貫して支配の対象、つまり植民地として政治的に扱ってきた歴史がある。その積み重ねとして「~人」というナショナルな意識と、その優劣という価値が生まれたと言える。これが福田村事件の根底にあると言ってよいだろう。そうしたナショナルな意識は共同体内における過剰な密着と、その外に対する苛烈な排除をもたらすことを、この映画は教えてくれる。

 

 ここまでは少しでも歴史を勉強した人なら感じる感想かもしれない。次のもそうかもしれないが、個人的にドキッとしたことを書こう。
 香川から来た行商人が些細なことをきっかけに、村人から「こいつらは朝鮮人だ、間違いない」と言われ、村中の人々から激しく糾弾されるシーンである。勿論誤解なのだが、どんどん村人がそこに集まって朝鮮人なら捕まえろ、殺せと言わんばかりに大騒ぎになってくる。そこに朝鮮人の虐殺を目の当たりにしたあの男とその妻が割って入る。経緯は映画で見てほしいが、とにかく二人は村人のところに割って入り叫ぶのだ、「私はこの人たちが行商人であることを知っています、朝鮮人じゃありません、日本人です」と。
 僕はこれで誤解が解けるか、騒ぎが収まるかするのだと思った。これで行商人の人たちは「朝鮮人」ではなく、「日本人」だとわかってもらえる、だから殺されたりつかまったりしないだろうと。正直安心している僕がいた。しかし行商人の一行の親方が直後に叫ぶのだ。「朝鮮人なら殺してもいいのか!」と。彼らは映画を観ればわかるが部落出身の「エタ」であった。
 僕はここで全身の神経が逆立ったような気がした。そして「安心」していた自分は福田村の人々と同じだったのではないか、とも。うっかりーと言ってしまっては益々僕の浅はかさを露呈するばかりだが―僕は「人が殺される/殺されない」という「見かけ」の基準でこの映画を観ていた。誤解が解けてこの行商人たちが殺されなければこの映画は、そして史実として「良い」ものになるという楽観的な、あるいは「道徳的な」視点で私はこのシーンの行く末を観ていた。つまり行商人たちが「日本人」だとわかれば誤解は解け、その展開は「良い」ものになると考えていたということだ。ずっとこの映画において差別され続けていた「朝鮮人」はいつの間にか、僕の意識からは抜けていた。僕は福田村の人々と同じ、そして僕もまたそうである「日本人」というナショナルな意識をもっていたのである。
 

 うまく言葉にならなかった。やはり実際に映画を観てほしい。僕はこの映画からヒューマニズムを読み取ることもできなければ、近代日本のどろどろとした「暗部」を読み取ることもできなかった。僕も生まれ育った時代が違えば「朝鮮人」を殺していたかもしれない、と思っただけである。

 
 
 

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