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 旅行日記

 最近滝本竜彦の『超人計画』(2006年 角川文庫)を読んだ。僕はこれをリスペクトしている。傑作だ。以下の文章とは相関性はない。また以下の文章を読みながら、そこに出てくる人物には「モデル」がいると感じる人がいるかもしれないが、それは誤りである。


 僕と善子は朝早く家を出て熱海へと向かった。新宿で乗り換えて小田急線で小田原へ、さらに乗り換えて熱海駅である。家を出たときは眠そうで、こないだの余韻もあるのか、少し暗い表情だったが、ガラガラの小田急線に乗って開成駅に向かうあたりから、晴れた朝の空に富士山がそびえたっているのが見えると、善子は「ねぇ富士山!富士山よ!やっぱこれが見えてくるとなんだか楽しくなってきちゃう!」とはしゃいでいた。微笑みながら僕はそうだね、と車窓から富士山をあおいだ。
 熱海駅に降り立ったのは午前10時を少し過ぎた頃。景勝地ということもあって、駅前は平日なんてお構いなしに人であふれかえっていた。大体の人はここから砂浜まで南方に伸びる坂を下っていくのだが、僕たちの目的地はその反対方向だ。みどりの窓口やエキナカの土産物屋がくっついた広い改札脇をすりぬけ、高架下を通って僕たちは北へ向かう。
 傾斜の強い坂が続くので、少し速足でなるべく早く登ろうと足が勇む。とはいえ、僕は時たま善子の足並みを見ながらゆっくり、時に速く坂を上った。
「すごいわね、こんなところにマンションや一軒家があって、住んでいる人がいるなんて」
 息をあげることもなく、周りをきょろきょろしながら善子がつぶやく。
「確かに車がないと生活はできないだろうね。バイクじゃあ登るのが難しそうな急こう配だし」
「住所に熱海って書けるなんて、なんだか自慢になっちゃうわね」
 クス、と善子は小さく笑う。確かに、住所欄に「静岡県熱海市」云々と書けたらちょっと自慢になるかもしれない。
 そんなことを言っていると目的地への看板が見えた。「MOA博物館」の横に書かれた矢印は左を差しているが、どうやら「歩行者近道」が右手に伸びているらしい。僕たちはそっちを歩いていくことにした。
 白い公民館や細長いマンション、広い駐車場を通過しながらしばらく歩き、階段を上ると見えてきた。「MOA博物館」である。白く清潔感のある、というかどこかキリスト教の境界を思わせる巨大なその建造物は、僕たちの目の前には「入口」を示すのだった。どうやら上にエレベーター化かエスカレーターで続いているらしい。
「大きいわね…あれ、地図だわ」
 善子が入口からロータリーを挟んだ歩道の地図を指さす。2人で近づいてみると館内及び周辺の案内図らしい。今通ってきた細長いマンションや公民館は「寮」のようだった。MOA博物館は岡田茂吉が開設した宗教「世界救世教」が掲げる、美術による世界の繁栄だかなんだかを理念にした美術館だ。だから美術館の近くに信徒の関連施設が並んでいる、ということらしかった。
「ねえ、さっき登ってきた脇は梅園だったって。帰りに見ていきましょう。あ、今いるところから上に美術館があるのね…広いわ!」
 地図と向かいの美術館入口を見比べながら、善子は目を輝かせていた。早く入ろう、と言わんばかりに目が輝いていたので、じゃあ行こうかと入口へ行った。
 入り口わきにチケット売り場があった。チケットを買い、中に入るといきなり明るく照らされたエスカレーターが上へ上へ伸びていた。ぼそっと「新宝島のMVでサカナクションがステージへ降りるときの階段みたい」と言ったら、善子は吹き出してしまい、かがんでおなかをおさえる。伝わったようで何よりだった。

 館内はすごかった。宗教法人による経営ということだからか、美術品はさることながら、建築構造も「美術」であった。エスカレーターを上がった先のテラスから上方へ一望できる美術館の外観は、白いブロック(レンガ?)とガラスに覆われることでつるりとしており、入口から見た以上にキリスト教の教会のような、荘厳さ、清潔さを放っていた。内装も同じである。シンプルな動線に配置された、多すぎない美術品で構成された広い展示室内。かなりゆったり見ていられる、落ち着いた美術館だった。その荘厳さに魅せられた他の客も小声で「すごいわね」なんて言っている。善子もその限りではなかった。
 僕たちが惹かれたのは曼荼羅だ。善子が先に見つけるとあ、と言って早歩きで僕の手を掴んでその前のガラスケースまで近づいた。
「曼荼羅よ!教科書で見たことあるわ!」
 善子は曼荼羅を指さしながら興奮していた。僕も曼荼羅は好きだ。
「この幾何学的に並んだ仏様を俯瞰しているこの構図がいいよね」
「そうそう!確か金剛界と胎蔵界の二つの世界を描いているのよね。仏様って一体一体に意味や役割があって、すごく存在感があるのに、それが何十体も並んでいるのが、迫力と異界の出してて、圧巻だわ」
 善子は珍しく早口で、しかし周りに配慮して小声で言う。
「でも善子ちゃんはヨハネでしょ?宗教が違くない?」
 小さく耳打ちする。
「そ、それはそうだけど…そう、神仏習合ってやつよ!」
 もう、とわざとらしく口を膨らます善子。そりゃあ失敬、と僕は頭をかいて笑う。
 少し展示室内を歩くと今度は仏像が並んでいるのが見えた。
「あ、阿弥陀如来像だって」
 善子が指をさす。解説とその像を見ると成程、「阿弥陀如来立像」である。
「あみだくじ、の阿弥陀ね」
 解説パネルを凝視しながら僕が言うと、善子が呆れて「もうちょいなんかないの…?」と言う。もうちょいなんかなかったのである。
「よく教科書に載っている仏像もこんな感じよね。これが範型なのかしら」
「そうかもね。掌印っていうのかな、手のひらの組み方とか足元の台座?とかこんな感じだよね」
 後ろの後光のように伸びるオブジェがなんとも「救済」のために地上へ降りてきた、という感じだ。善子もしばし、そして同じケース内の仏像と共にしげしげと阿弥陀如来像を見つめていた。

 美術館を出たのは正午ごろだった。美術館奥の茶屋や庭園もまわっておりてきたら、意外と時間が経っていた。

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