「何かがある」/宗教的感性

 自宅で読書をしているとなんとも表現しがたい感覚に襲われることがある。これを書き始める少し前にその感覚が走ったのであるが、それは言葉にしがたい感覚である。宇宙空間のような、しかし惑星衛星も光もない暗闇の中で私だけが一人「大」の字になって浮遊しているような感覚。私以外には何もない。しかし何もないのに甘美というか恍惚というか、心地よさを感じる。つまり何もないのに感じ取られるものがある以上、何かがあるという感覚。
 ハッと我に返るとまず想起されたのはエマニュエル・レヴィナスが説くイリヤ(il y a)である。「(中略)たとえ何も存在しなくても、「ある」という事実は否定しえないと思うときにも感じられる何かです。あれこれのものがあるというわけではなくて、存在舞台そのものが開かれている、つまり〈ある〉のです。天地創造以前の絶対的な空虚というものを想像することができますが、それが〈ある〉ということなのです」(エマニュエル・レヴィナス〈西山雄二:訳〉 『倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話』2010年 筑摩書房 P.52-53)、つまり存在の舞台という空虚な〈ある〉。この指し示しがたい何かというイリヤに私は泳ぎながら、その「指し示しがたさ」から何かを感じる感覚、というのが現時点でひねり出せるあの感覚に近い言語表現である。

 
 最近考えた心の在り方として宗教的感性と呼ぶべきものがある。これは特定の宗教を信仰し、特定の存在を信仰するとか日中は特定の日、時間に特定の方向に祈りをささげるみたいな規定を守るといった信仰心ではなくもっと原始的な、例えばアニミズムのような抽象的で言葉として表現しづらい何か超自然的な存在をそれとなく信じる、という心性である。こういう話を先日友人にすると「それって例えば子どものときに暗い場所が何となくこわいとか、目を閉じていたら感じる誰かに襲われるかもしれないという恐怖に似たようなものじゃないか」と言われた。なるほど、子どものときの「あそこに何かがいるように気がする」「なんだかわからないけど怖い」という感覚、あるいはいるはずがないとわかっているのに、そこに何かいるかもしれないという不安というのは一種の宗教的感性なのかもしれない、と納得がいったものである。


私が読書の時に感じ取るイリヤの感覚。何もないのに何かがあるように思われてしまう宗教的感性。これらは神もあの世も信じない人間のもとにも到来する人間的、あまりに人間的な感性である。神がいるとかいないとか、あの教えは素晴らしいといった話は狭義の「宗教」であって人間に普遍の宗教とは今私が言ったような宗教的感性、つまりよくわからないが「何かがある」ことに思慮を及ぼす心性を指し示すように思う。それはまた自然環境を改変、支配可能な道具としてではなく、人間を包摂しながらも不可知領域を含む、人間が共存していかねばならない「他者」として捉えるための自然観でもある、と最近考えている。宗教的感性と自然観の転換は連関しているのではないか、という問いを書いて本文は〆るとしよう。


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