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脳内彼女とは何者なのか

はじめに(『超人計画』の概要)

 脳内彼女とは誰なのか。脳内彼女は滝本竜彦の半エッセイ半小説と呼ぶべき名作『超人計画』(2006年 角川文庫)に登場する、滝本竜彦が妄想によって創り出した彼女である。あとがきにおける滝本氏本人の解説を踏まえると、大体の話は以下のようになる。
 本作は滝本竜彦本人が鬱病から回復し、『ネガティブチェーンソー・ハッピーエッヂ』『NHKへようこそ』に続く作品を書き上げ、彼女を作ってこれまでのオタク気質で引きこもりで、内気な自分を変えるために書かれたエッセイである。取材として実際に行った場所や滝本氏本人が映った写真を挿入しながら、そして(これも本作の基調をなしているのだが)ニーチェが『ツァラトゥストラはこう言った』で記した「超人」を目指して奮闘する様子が面白おかしく書かれている。
 そしてこのエッセイの肝であり、本論の考察対象としたいのが「脳内彼女」こと「レイ」(以下鍵括弧を外して表記)である。レイは(身もふたもないことを言うと)滝本氏の妄想で、フィクション上の存在である。本作はエッセイでありながら、先述した滝本氏のうつや引きこもりを解消するためにレイちゃんと滝本氏が対話しながら物語が進んでいく。その意味で冒頭では本作を「半エッセイ半小説」と書いたのである。

 レイという存在(事例)

 長くなってしまったので本論に入る。レイが作中でどのような存在なのか。結論から言えばトラウマを乗り越え、自分を変えることに奔走する滝本氏を、一人称でも三人称でもない視点から観測する存在である。そのことを論じるために、象徴的な例としてまずレイ視点で滝本氏が彼女を作ることに消極的になった、トラウマ的な過去が描かれる第四章から引用する。以下の引用は滝本氏の一人暮らしの家に同郷の女性が来て、寝る前に滝本氏が「恋」の話を持ち掛けられた様子を、レイが傍観するというものである。

(中略)しかしそのときです!な、なんとー「ゲーム消して」と彼女が囁きました!そして彼はプレステの電源を切りました!部屋はついに真っ暗になりました。もはやカウントダウンは秒読み状態です。私の胸を罪悪感が支配しております。ダメよ覗いちゃいけないわと良心が訴えかけます。(中略)
 ・・・・・・そのときでした。
「ピコンピコンピコン・・・・・・」
 トラウマ探知機が緊急アラームを発していました。
 我に返った私は、探知器に表示されたトラウマ名を読み上げました。
「急性ED」
 滝本さんは絶望の表情を浮かべていました。

滝本竜彦『超人計画』2006年 角川文庫 P.78-79

 ここでは女性と過ごす夜においていいムードになった滝本竜彦が、肝心なところでEDを発症してしまう、というトラウマが描かれている。失恋とも読めるこのトラウマは、滝本氏がゲームにのめり込み、引きこもりが急激に悪化する主要な原因として記述されている。
 次に滝本氏がデートの予行演習として、知り合いの女優と渋谷をデートする現場をレイが尾行する第7章から引用しよう。引用箇所は滝本氏が一旦食事の席を立ち、トイレのドア越しにレイと言葉を交わすシーンである。

「もう三時間も半径2メートル以内にいるよ。もう四百字詰め用紙に換算して五枚以上の会話を交わしたよ。―――こ、こういうのって、まるで不思議な奇跡だよね。もしかして彼女、何かのご縁があるのかもね」
(中略)このまま自分に都合のいいドリームを肥大化させて、いつか致命的な傷を負うよりはマシでしょうから、ちょっと可哀想だけど、私は大嘘アドバイスをしてあげました。
「・・・・・・あなたの趣味のことをできる限り正直に話すと良いわ。まずは互いの趣味を披露しあうのが、対人間会話のセオリーなのよ」
「あ、ありがとうレイ!」

滝本竜彦『超人計画』2006年 角川文庫 P.136

 このシーンではレイは、浮かれる滝本氏を現実に戻し、彼女を作ることに対して現実的に向き合わせるために嘘のアドバイスを行う。それを受けて「あ、ありがとうレイ!」と滝本竜彦は言ってトイレを出て卓に戻る様子が記述されている。

 レイの存在をめぐる考察(第4章)

 以上の二つの章は『超人計画』において非常に重要な章であり、「レイ」という存在を象徴する章である。いずれの章にも共通しているのは、レイが滝本竜彦という人物を1人称でも3人称でもない、2人称視点で観測しているということである。
 先にも記したがレイは滝本竜彦の「脳内彼女」という妄想の産物であり、したがってレイと滝本竜彦は存在様式としては(見た目や話し方といった形式は全く違うにせよ)同一である。ということは2章と7章の構成は滝本竜彦が自分の行い(2章ではトラウマとなっている過去の行い、7章ではデート中の様子)を、レイという視点から記述し、振り返っていることになる。ここでポイントになるのは、単純に自分の行いを振り返るだけならレイという視点から語る必然性はないのに(滝本竜彦が「僕」という一人称で自分の行いを振りかえることもできるはずだ)、そうはせずにレイという妄想から生まれた存在に出来事の記述を(仮想的に)ゆだねている点にある。つまり滝本竜彦のことを本人が語ることと、レイが語る事には差異があるということだ。その差異とは何だろうか。 
 それはレイという視点は、あるいはレイと滝本竜彦の対話は、滝本竜彦が独白や自問自答という形では語りがたいことを語ることを促している点にある。第2章においてレイが目の当たりにしたのは、滝本竜彦のトラウマだった。トラウマは「私」にとって思い出したくない、辛く苦しい記憶だからこそトラウマなのであって、したがってそれは「私」という一人称を起点に自問自答を繰り返し、独白するうえでは避けたいものである。かといって、仮に第三者が滝本竜彦という「私」のトラウマを情報として受け取り、解釈するという形式では、どうしても第三者と当事者の「私」の理解にはズレが出る。
 だから「脳内彼女」のレイが登場するのである。つまり滝本竜彦という「私」と完全に同一人物でもなければ、滝本竜彦とは全く別の「他者」でもない(先述したように滝本竜彦の妄想の産物であるレイは、存在様式としては同一でも性格や容姿、話し方としては全くの別人である)レイという存在に滝本竜彦の記憶を語らせることによって、滝本氏がトラウマを克服し、彼女をつくることに前向きになるためにレイちゃんが語り手となるのである。

 レイの存在をめぐる考察(第7章)

 第7章でも似たような役割がレイには与えられている。先の引用箇所のあと、彼は食事の席に戻り、知り合いの女優に自分の趣味全開で話し出すことになる。自宅に帰りレイと反省会が始まるのだが、滝本氏は自らのふがいなさに絶望し、以下のシーンが続く。

「やっぱり渋谷には行かない方が良かったよ。『超人計画』なんて始めなけりゃ良かったよ。あのまま君(引用者註:レイ)と二人でアパートに籠っていたら、このむなしさを思い出すこともなかったのにね。・・・・・・(中略)」
 彼は頭を抱えて苦しげにうめきました。その姿が哀れで愛おしくて、私は胸がきゅんとしました。そうです。かれはいつも、綺麗な女性からは自分ですたすたと遠ざかります。できるだけそっちを見ないようにして、アニメやゲームで気を紛らわします。(中略)私が彼を叱ってあげなきゃならないのです。たとえそれが自分の消滅を導くセリフだとしても、私は手を振り回し「ダメ、ゼッタイ」と叫びます。何度でも私は叱ります。(中略)
「私だってあなたと別れたくないわ!でもそれでも、あなたは『超人』にならなくちゃならないのよ!劣等感を捨ててルサンチマンを打破して、あなたは立派な『超人』になるべきなのよ!・・・」

滝本竜彦『超人計画』2006年 角川文庫P.142-144

 ここではデートを経て彼女をつくることに絶望を感じている滝本竜彦に、レイが発破をかけるシーンである。引用中にレイが行うように、自問自答や独白の形式で自分に強い言葉を浴びせ、刺激を与えながら初志貫徹を説き、促すことは非常に難しい。自分に甘えたり、トラウマのような思い出したくも言いたくもないことに自分で言及するのは困難だからだ。かといって第三者からこのように説かれても理解・認識にズレがあれば「お前に何が分かる!」といったように逆上し、感情的になって対話が中断されてしまう場合もある。こうしたリスクを最小限に抑え、なおかつ自分の問題を改善し、初志貫徹するために、滝本竜彦という「私」のアナザーな「私」、つまり「もう一人の私」でもなければ「彼」や「彼女」といった「他者」でもないレイが活躍しているのである。

 まとめ

 以上が脳内彼女レイの特質性であり、『超人計画』の魅力である。レイと滝本竜彦の関係を敷衍して言えば、「脳内彼女」は「私」にとって「もう一人の私」とは完全に同一でもなければ、彼・彼女・それといった三人称、つまり「他者」でもない。だからこそ「脳内彼女」は「私」がトラウマとして抱えている不快で辛く、苦しい、あるいは恥ずかしい記憶や、それに基づく問題の分析及び解決の後押しをする役割を強く発揮する、とまとめることができる。
 今回は『超人計画』から考えたことと筆者の考えを無媒介に論じたため、今度は「脳内彼女」という存在そのものについて、哲学の文脈で考えてみようと思う。気力があれば続きを書く。

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