引き裂かれる

 性についてだらしなく考え、妄想に耽る「私」と、それをみっともなく感じ、封殺してしまいたい「私」。どちらも「私」だ。だからどちらも偽ることができないし否定できない。でもどちらも「私」である故に、身体という器がそれらを暴力的に共存させてしまう。困ったことだ、苦しい。
 身体はこの意味で「私」にとって暴力だ。身体は認めたいものと認めたくないものを無理やり共存させてしまう。でも身体のやることはそれだけで、それらの折り合いをつけるとか、納得させるという作業は当事者、つまり「私」に丸投げなのだ。結局苦しむのは「私」である。

 『ウパニシャッド』には輪廻転生の教えが記してある。欲望を断ち切れなかった人間は、生前の行いに応じて現世に生まれ変わるというやつだ。逆に厳しい修行を経て欲望から解放され、解脱した人間は自己のうちでアートマンに目覚め、肉体の機能が停止すると不滅不変の最高存在、ブラフマンに合一するというあれだ。
 仏陀は四つの真理として「四諦」を挙げた。苦諦・集諦・滅諦・道諦の中でも「苦諦」というのはこの世が苦しみに満ち溢れていることに気づくことを意味する(倫理の教科書的にはこれでいいだろう)。ここから解脱に至る道が始まるのである。
 こうして古代人は厳しい修行の中で身体の暴力性に気づいていたのかもしれない。身体が思惟に引き裂かれるような苦しみはきっとアートマンに目覚め、解脱するための大きな動機付けになったのだろうと思う。宗教という人間の思惟がなぜ数千年も存在し続けているのか、今ならほんの少しだけわかる気がする。
 

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