Conviviality

 私は毎週スーパーへ行く。ここ一年ほどの主食となっているカレーとシチューの材料を買うためだ。自転車で大学へ行き、講義帰りにそのままスーパーへ。そのスーパーの隣には小さな八百屋がある。昔からここでやっています、という感じの小さな八百屋だ。その存在を明確に認知した当初はあまり気に留めなかった。風景の中の一つといった感じだった。
 ある日スーパーに着く前に「今日はあの八百屋で野菜を買おう」と思った。スーパーで肉を買い、八百屋に立ち寄る。すると店主のおじさんが「今日はネギが新鮮だよ!」と声をかけてくれた。へぇ、と思ってそちらに目を向ける。値段はいつも使っているスーパーのものとほとんど変わらないし、確かに色鮮やかなネギが3本束ねて陳列されていた。これを買おう、で他の野菜はどうかしらと周囲を見ると隣の一段低い陳列棚にカリフラワーとかトマトとかが陳列されていた。今度はその横にいた若いお兄さんが「この野菜はこの地域でとれた野菜なんですよ」と教えてくれた。地産地消というやつだ、何か買おうと思ったが生憎どの野菜もカレーにもシチューにも合わなさそうだったので買わなかった。結局ネギと玉ねぎ、人参を買ってその日は帰った。なんだか善行を積んだ感じというかなんというか、気分がよかった。

 今『コンヴィヴィアリティのための道具』(イヴァン・イリイチ 渡辺京二・渡辺理佐:訳 2015年 ちくま学芸文庫)を読んでいる。コンヴィヴィアリティというのは自立共生と訳されて本文で使用されている。「産業主義社会」と呼ばれる現代(この本の原著は1973年なのでそのくらいの世界)を批判し、その改善手段として提唱されている概念で「各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わり(P.39より引用)」を意味する。要は人間一人一人が意欲する事柄に対する能力の発揮を助け、実現させるための考え方として自立共生があり、そうした機能を有する自立共生的な道具が必要だ、ということである。まだ読んでいる途中なので自立共生的な道具が具体的に何なのか判然としていないし、そもそもこういう要約が合っているのが不安ではある。この自立共生に対立し、批判される項として産業主義社会がある(イリイチはそう言ってないし訳されてもないが資本主義社会といっても間違いではないと思う)。ここでは一人一人が高度で専門化されたハイテクとかサーヴィスに依存しきってしまっていて、自分の手で何かしようという意欲が生まれがたい構造ができてしまっている、というのがイリイチの主張である。
 スーパーには大体の日用品・食品はそろっている。野菜も肉もおかしも飲み物も洗剤もまとめてそこで買える。コンビニにも同じことが言えるだろう。ネット通販はもっと便利でボタン一つ押せば商品の方から自分の基に来てくれる。パソコン一つあればメールもできるし仕事も、ゲームも、ツイッターもできる。便利だ。通勤通学に使う電車も便利で人間をまとめて移送させるにはもってこいだ。しかも速い。思いついた「便利な」ものをいくつか挙げたがまだあるだろう。これらのもの乃至サーヴィスは様々な機能を集約させ、利便性を創出する点で共通している。そしてこの利便性に慣れきっている自分がいる。そしてその感覚に一抹の貧しさの存在可能性をイリイチは指摘しているように思う。利便性と効率性に慣れ切ることへの懐疑、それらに人間としての力能が奪われているような感覚、これではいけないという感覚…。平板な感想と読めるかもしれないがこの感覚にどれだけの人間が自覚的であるだろうか。

 とりあえず来週もあの八百屋で野菜を買おう、そして家の近くの精肉店も覗いてみよう、カレーとシチューにぴったりな美味しい鶏肉があるかもしれないから


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