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差異ではない距離

違いのわかる男

その昔、「違いのわかる男」、がフレーズのインスタントコーヒーのCMがあった。

調べてみたら、1970年ごろからのCMシリーズのようで、さまざまなアーティスト、著名人が起用されている。

フランス現代哲学で、構造主義からポスト構造主義に移行するあたりの時代の匂いを、当時の日本の広告代理店も嗅ぎ付けていたのだろうか。

こう言っては失礼だが、たかだか、インスタントコーヒーごときに、俳優以外のこのような著名人を起用していることにも驚くが、その「違いのわかる男」たちですら、このインスタントコーヒーと豆から挽いて淹れたコーヒーとの違いが分からない、すなわちそこまでインスタントと言われるコーヒーの質が高いことを自慢したかったのか、今となっては意図を測りかねる…
察するに、当時、そこまでメジャーではなかったドリップコーヒーに対し、インスタントコーヒーですら真新しかったのか。それゆえに高級感を出したかったのか。

いずれにせよ、このCMがポピュラーになるにつれ(テレビCMにはよくありがちな現象ではあるが)、逆に、もしかして「違いがわかる男こそ、デキる男なのではないか?」と勘違いする若者が増えた。

CMに起用されてるタレントが一様に優れており、確かに彼らにしてみれば、世の中の深層に隠されているさまざまな「差異」に敏感であることは間違いないであろうが、おそらく、彼らが優れているであろう理由は、差異よりも、彼らが生み出す「絶対的な価値」にあったはずだ、と、幼心に信じたかった記憶がある。
しかるに、世の中には、違いを語る言説が増えた。

各メーカーによるビールの味の違い、車のデザインのディテールの違い、ホームランバッターの微妙なスタイルの違い。
それよりも重要なのは、この目の前の食事のコンセプトに合うのはビールなのか日本酒か、であり、ホイールキャップよりも走りとしてのエンジン性能であり、ホームランになろうが三振しようがタイトル抜きにして感動的な豪快なスイングであり、と考えていた。

違いしかわからない男

実際には、その微妙な差異の中に、事実、人生を大きく左右するくらいの重要な意味付けの差があったりもするのだが、「違いがわかる男」以前に、「違いしかわからない男」が増えた可能性は高い。
違い以前に、本質を見抜く、少なくとも、本質を見抜こうとする気概を持つことが肝心だ。

しかし考えてみれば、本質を見抜く、とは、いうは簡単だが、そうそう簡単に見破れるものでもない。
価値観が多様化し、物事を測るための土台も尺度も、時代とともに変化し続けているこの時代である。

違いよりも、距離を測ろうとする意思

だからこその、距離、だと考える。
差異ともちょっと違う。
訂正的な違い、に加えて、方向性と絶対的な隔たりを測ろうとする意思。あるいは、逆にそれらを測り得ない、と絶望すらしてみせる覚悟。
何かと何かが違うことを指摘するだけでない、その二つの要素を並べてみる、対峙させてみる試み。
そして、その対峙の構図から、物語を語ること。

変化の時代、一つの大きな哲学で時代をまとめることの難しい時代であるからこそ、一つ一つの距離から物語を語ってみること。
それこそが、時代を生き延びるための有効な手段ではないか。

そう願いつつ、距離だけ、について、引き続き、テキストを重ねて行きたい。

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