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属人化する選挙と民主主義(備忘録)

第○回キャラクター人気投票!と化す選挙


 これじゃ選挙じゃなく人気投票だ。都知事選でしみじみそんなことを感じた。

 今回の都知事選は野党がまともに対立候補を立てられず終わったという以外の予想も感想もないが、もはや報道もネットも政局政局と闘技場さながらの様子で、対立候補が立てられなかったのは結局政策が出せなかったことと同義ではないのかとさえ疑った。

 何か物申せるほど都知事選を追っていたとは言えないけれど、それにしたって野党側(与党、現政権ではない、という意味しか持たない、もはや)の動き、支持者には呆れるものが多かった。泡沫候補含めて。
 いや、組織票を疎み、既存権益に反対する、しがらみが嫌いだという、その気持ちはわからんでもないが、個人にできることなどほぼないのに何故そんなにも社会性を自ら失っていくのだろう。
 人間は社会的な動物であることは間違いなく、民主主義とは集団の力ではないか。

 それがどうだ、まるで候補者をスーパースターかヒーローかのように扱い、だからこそ選挙が属人化(個人化)し、人気投票に見えてしまう。
 たった一人の超人が、何もかもを打ち砕いてくれるというまるで子供じみた夢を見ているのだ。

 説明する必要もないと思うが、そんなわけはない。首長に期待されるのは協働であり、いかに多くの人と仕事ができるかである。そうじゃなきゃ回るわけもない。
 しがらみや既得権益、と呼ぶのか、太いパイプや後ろ盾と呼ぶのか、それは見方や価値観の違いであろうが、いずれにせよ個人的にはそう言ったものを当然調べた上で投票をしてきた。
 地方自治体選挙ならなおのことだ。個人の能力云々よりも(大体そういうことは目に見えてわかるものではない)誰なら県や国から、あるいは企業などから金を引っ張ってこれるか考える。声がデカけりゃ金がくるわけじゃないのだ。

 だというのに、政策という政策もなく、あってもおよそ実現不可能もしくは意味不明だと少し考えるだけでわかるようなものをひっ下げたあんな候補やこんな候補が出てくるし、そっちに注目が集まる。この空気はなんだろう。

 それもまた民主主義だというのだろうか。民主主義はこんな個別の時代を見越していただろうか。

 しかし彼らはワン・イシューごとに集まるただの群れである。そこに協働や持続や包括性はない。そんなものに政治はできない。
 選挙直後からすでに散り散りとなり、また別の何かに群がっている。浮動票とはよく言ったものだが、これは浮動ですらない。

 時代の閉塞感がヒーローを求めている、という声があった。それにしたって見る目がなさすぎる。実行力をどのあたりに見ているんだろう。ネットの言説だけでわかりやすいものを食べているだけなのだろうか。おそらくそうなのだろう。

その幼さに覚えがある


 昔、武雄市に樋渡市長が誕生した時のことだ。当時市役所の片隅で就職浪人のような時期を過ごしていた私は、数人の同世代の若者と町おこし事業をやり始めようと動いていて、その名前を使って3人の仲間と武雄市に電撃訪問し樋渡氏に面談いただいたことがある。

 ちょっと委細は覚えていないが、図書館事業をやっていた友人のこともありなんだかんだ押し込んだのだろうと思う。あの頃は色々な所に顔を出し、色々手広くやっていた。
 それにしたってこんなのに会うわけだからやはり余程の変わり者である。表向きの名目は新規事業に対する取材だった。若さを生かして会えるだけの人に会おう、行けるだけのところへ行こうとしていた頃だった。

 当時の私の思惑は大したものではない。時の人がどんなものなのか、実際に自分の目で確かめてみたいという気持ちがあった。メディアやネットで得られる人間像と、実際に関わってみることの違いをなんとなく予想しており、そこをきちんと経験しておきたかったのだ。
 そう、超人的な個人が何かを打破することができるのか、あの時最年少市長として誰もが樋渡氏に注目したように、若い私も熱いものを感じていた。
 きっと、今ネットで見ている熱狂はあれと同じものだと思う。

 面談は30分ほど。その場でリクルートされた。しかも樋渡市長肝入りのあの図書館事業でだ。面食らった。周りにいた役所関係者が慌てていたが、市長は本気だった。
 おそらくその仕事を能力的にやることはできるが、自分のやりたいことではなくビジョンもないので、と素直に話してお断りした。名刺はいただいた覚えがある。
 面くらわされた。同じ人材が出た時、周りが持て余すだろうなという印象が強かった。人物評は私などには立てられなかった。肯定も否定もできない。でもそれでいいのだろうと思った。これからの武雄を見ていこう、と。

 樋渡市長が残したものは多い。佐賀県知事選以後、世間の関心は薄れてしまったが、氏の業績について総括しているものはおよそないだろう。というか、できないのである。
 政治はワン・イシューで終わるようなものではないからだ。武雄は随分と元気になりその名をよく聞くようになった。何もかも素晴らしいとはいかないし、例の図書館については批判も多く聞かれただろう。
 自治体とは生き物である。長く健康に生きるよう、一人ひとりが細胞のように日々活動していくことがそれそのものであると思う。
 樋渡氏はまだ武雄で活動しているし、武雄は学んだことを生かして色々な手を打っては遠い私の所にまで名を響かせてくる。それだけで何かが息づいていることは確かだ。

 あの頃、あの熱病にかかって、それを確かめるべく自分の足で動いたことを良かったと思う。私は氏に熱狂しなかった。それが何より良かった。
 個人でできることにはやはり当然のように限界があり、どんなことも短期間で何か証明できるようなものではないということを改めて自分の人生に刻み込めたからだ。

 私は結局町おこし事業を軌道に乗せなかった。政治の道を示されたことも何度もあったが、須く断っている。
 能力的にできないことはないが、ビジョンがないからだ。
 この街を、国をどうにかできるビジョンが浮かばない。学んでもいないし、考えるにしたってぼんやりとでしかない。立候補する人はすごいと思う。
 どんなビジョンがあるのか一人ひとりに聞いてみたいと常に思うのだが、それを語っている人はあまりにも少ない。

 ちなみに、町おこし事業は市が起こした。私たちが計画していたようなことは大体やってくれている。誰かがやるだろう、思いつくだろうと思っていたことは、やはり想像通りそうだった。それでいい。結果も成果もまた予想の範囲内だった。ビジョンは相変わらず不在のままだ。


群れですらなく、たまたま居合わせた個人であること


 社会的に生きる能力をどのあたりで捨てているんだろう。真剣に考えようと思って、杞憂かもしれないなと思った。
 まだ大多数の人は社会を保っているからだ。現政権は予想通り勝ったし、政治は粛々と行われている。問題も課題も多く、ヤバい波も来ているが。
 都知事選で言っても、小池氏本人の人気ではなく(なんなら小池氏個人は人気が低いそうで…)現政権への評価でしかなく、実際、街路樹だとかプロジェクションマッピングだとかは政策でも議論の的でもなく、そもそもの政策を論じることができなかった野党側が勝手に敗走しただけとも言える。
 現政権を評価している人は、個人の人気投票をしていない、とも言えるわけだ。顔が小池氏なだけで、都全体がおよそ成果を出しているので良い、と判断している。それは都民ではない私も同意するところなので、野党は別ビジョンを出せと心底思う。


 でもどうだろう、群れは膨れているようにも思う。
 個人の全能感。そんなものが幼児期をすぎて保存されてしまうのは、文化的な退廃のせいだろうか。平和のおかげか。統制された方がもしかしていいものなのか。統制の下、国力を伸ばしている国をみているととても複雑な気分になる。

 わからない。わかるべくもない。何事も短期的に結果が見えるものではないから。

 それでもこのお祭り騒ぎにうっすらとした不安を覚えずにいられない。
 個人が何かを変えるようなことはない。いや、個人が変えられるサイズは数万人規模の地方自治体くらいで限界だ。
 会社だって社長一人、あるいは社員の革命戦士一人で変わるところなどほとんど見ない。
 先陣切って何かことを起こす人間をどうして夢想するのだろう。いっせーの、せっ!で動ける・動かす人間が一番強いのに
 尖った人間より柔らかい人間の方が強い。人を巻き込み、他者を活かす人間の方が強い。一人よりたくさんの人間の方が強い。敵対するより同意や折衷妥協を得られる人間の方が強い。
 できることが多いからだ。

 クラスでも会社でも同じことが起こっていると思うのだが、都会などではサイズが大きすぎるが故に──あるいは個人化がずっと進んでいるのかもしれない、と遠く思う。
 それから、やっぱりフィクションと現実の区別がつかない、がこの辺で起こっているのではないかなと思ってしまう。
 現実にはヒーローなど必要ない。本当に必要ないのだ。必要なのは良識ある連帯できる個人なのだ。ヒーローを求め担ぎ上げる積極的無力者でもない。

 この世にあるのは倒すべき悪ではなく、どうしようもなさとかなのだから。

備忘録。

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