豊岡演劇祭 Q『弱法師』

豊岡演劇祭2023ディレクターズプログラム Q『弱法師』
城崎国際アートセンター
劇作・演出:市原佐都子
語り:原サチコ
音楽・琵琶:西原鶴真
人形遣い:大崎晃伸、川村美紀子、中西星羅、畑中良太

『虫』『バッコスの信女-ホルスタインの雌』などの市原佐都子作・演出による、能『弱法師』をベースとした作品。ドイツの世界演劇祭で初演された後、高知・城崎(豊岡演劇祭)で上演された。

作品はハンブルク・ドイツ劇場の専属俳優である原サチコの語りにより進行し、人形遣いが4人(豊岡演劇祭では3人)、そして琵琶等の音楽演奏者というスタッフワークで進められる。
舞台冒頭かなり長めの琵琶の演奏があり、何となく重苦しいかつ古典的雰囲気で始まった。幕が開くと日本の田舎のどこにでもある部屋と工事現場。作品は語りだけで進むのだが、語りという特性上、登場人物たちの台詞というよりも状況説明と内面そのものがスピーチされ、基本的になにも包み隠さずにすべて語りの口頭で物語とその内側を知ることになる。
面白いのは人形たちが自らを人形であると認識しているところ、さらに性別や職業によるステレオタイプを自認にしているところ。交通誘導員である父はつらい仕事でも「私は人形だから」と自分に言い聞かせるし、母は「私は愛されるために生まれてきたの」と繰り返し考え、そのように振る舞う。彼らが自宅でセックスをするシーンは、人形の後ろにいる人形遣いが必死に人形たちに性行為させようともがいたり、射精時の動きなど不要な詳細を演じるため笑いが起きていた。セックス後に父が母の体にベビーパウダーを使用することは彼の律儀な性格と、人形であるということ、さらに後半につながる伏線にもなっている。
「夫が眠っても なんとなくまんこちゃんを抱いてぼーっとしていた すると涙があふれてきた」という語り。女性器が取り外し可能であり、自らの体なのに所有物ではないこと、愛おしい存在であること、人形だけど涙があふれること、が絶妙なバランスで面白い。
そして子供の魂が宿り、その魂を赤ちゃん人形という入れ物に入れる。魂と身体が一致していない、魂の入れ物としての身体は、プラトンの、魂が肉体という牢獄に入れられているという思想、または輪廻みたいな考え方なのか…。

少年に成長した坊やは、父がダイソーで買ったエリーという人形をもらう。この作品の公演チラシなどのビジュアルになっている人形である。「やさしい 健気なかわいい お人形さん」になるエリーは坊やの相棒になるが、坊やはエリーの四肢を切り落とす。エリートに育てられた坊やの暴力性や、偏った小児愛・人形愛が垣間見える。

その後、母が死ぬ描写が続く。「関節が緩み 皮膚に亀裂が入って顔も黒ずんだ」という人形なのか人間なのか、どちらでも通用するような言い回しで老いたことを説明し、またセックスレスであることを吐露しながら段ボールの棺の中に入って死ぬ。坊やは母が死んでから、エリーの胸のふくらみに乳首を書き足して母のことを考えながら口に含むという形で、母への愛を人形に投影する。
そのすぐあと、父は新しい女性(継母)を家に連れてくる。坊やをベッドの下に移動させ、父と継母はセックスをする。継母もまた過去の恋愛でいろいろあったようであるが、坊やは新しい母親を認めず、継母はまたそれによって倒錯した形で坊やに接する。
坊やの陰部を舐めようとした継母は父に見つかり、問い詰められた継母は坊やの顔を傷つけ、父は窓から落ちる。このシーンで継母は「こいつは内臓もないんだから表情なんかあるわけないだろ 内臓あってこその表情なんだよ」という、まるで彼女が人形であることを棚にあげているような台詞を口にする。観ている側からすれば、全員人形なのでそのフィクションのラインがよくわからないが、人形であることと人間であることには大きな隔たりと優劣があるのだということは引きたって伝わってきた。
ここで一度幕間を挟む形になる。幕間中はなんだか不思議な語りが続く。

二部はゴミが不法投棄されている場所が舞台で、舞台下手に水をはったバスタブ。継母によって傷つけられた坊やはそこにゴミとして投棄されているが、Aが登場し彼を救い出す。羊水であるというバスタブの中に坊やをいれ、人間の温かさを初めて体感するが坊やは何も感じられない。Aが働くマッサージ屋に坊やは招待されるが、そこは人間的なパーツが欠損していたり、またパーツが多すぎたり、パーツをつけ外しできる特殊なマッサージ屋であり、「売りたい自分を売る」場所であった。さらにマッサージ屋はマッサージの対価としてお客さんの宝物(体の一部)をもらっているという。「丸よりもかけているほうが美しい」というAに対して、坊やはあなたは私のお母さんかと問う。

そしてマッサージ屋に父が来る。性が倒錯している場所であることに戸惑う父は何となくで、マッサージ師に坊やを指名した。父をマッサージする坊やはその流れで、父にナイフを刺し心臓をつかみ出す。父はマッサージ師の首にあるエリーを見て、その少年が坊やであったことに気づき、父は首を吊る。「自殺なんかして文楽の人形気取りかよ ただの交通誘導人形だろうが」などと自殺した父を見て馬鹿にする人形たち。

坊やは心臓を手にしてついに自分が汗をかく人間になったのではと錯覚するが、それは汗でなく(ベビーパウダーをはたかないことで出てくる)油だった。「すべて幻だった 死ぬことも生きることも すべてただの人形遊びだった」。坊やの残された頭は、自らの口で「生きているよ」と喋り、終わる。

マッサージ屋に働く人形たちを見たら、果たして正常な身体とは何かという問いが生まれるし、彼ら彼女らは(正常の対義語として使用するなら)異常な身体を商品として売り買いする。風俗などで性を商品として扱うのは、記号的な性別を求めているところも大きいだろう。そのうえでこのマッサージ屋は記号ではなく、性別の境界線、さらに人間の定義にまでかかってくる身体を持って商品として差し出す。父はもう引き返せないという理由から何となくで坊やを指名するのだが、彼に心臓という人間であることの最も記号的な部分を奪われる。果たしてこの物語の人形たちが何を求めているのかが最後まで理解することができないのだが、まあそれは現実の人間を見ても同様だろうと思わざるを得ない。

性別や社会的立場でラベリングされた世界を、人形を駆使して簡単に飛び越えてそれこそが異常であることを表す市原作品は、決して見やすくて心地が良いものではないが、この嫌悪感や異常さをなかったことにする現実の方が暴力的なのではないかと問うてくる。

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