アリエル・ドルフマン『死と乙女』を観て、読んで

アリエル・ドルフマン作『死と乙女』。
弦巻楽団「秋の大文化祭!2023」にて鑑賞したものがかなり興味深く、鑑賞したその日のうちに岩波文庫から出版された文庫版を購入した。なお、弦巻楽団での上演は青井陽治翻訳で、2023年8月出版の岩波文庫版(飯島みどり訳)とは別のもの。『死と乙女』は近年上演機会も多く、さらに、新訳の出版ということからも本作の同時代性がわかる。

パウリナは、夫で弁護士のヘラルドが連れてきた男性医師ロベルトが、過去に彼女を拷問し強姦した張本人であることを主張する。ヘラルドは、独裁政権下の人権犯罪について、被害者が死亡に至ったと推察される場合に限り調査する「調査委員会」のメンバーに任命され、キャリアを約束された人物。一方でパウリナは、政府や委員会が独裁国家から民主主義を獲得した過程で取りこぼしてきた被害者の一人であり、彼女自身の私刑をロベルトに下そうとする。
3人の緊迫した会話劇で本作は進むが、本作のハイライトは3幕1場、パウリナが受けた拷問について録音機に向かって話し始め、当時の描写がそのまま舞台上で演じられるシーンである。
この作品を通して言えることだが、ドルフマンは戯曲中のト書きにかなり細かく演出上の注文、特に照明についての記載をしている。このシーンはパウリナの語りの途中から照明が落ち始める指示が入る。それまでワンシチュエーションで進んでいただけに、照明によるシーンの変化が明確で、実際にシューベルトの「死と乙女」(第2楽章)が流れ、ロベルトは拷問を行った者を演じる。パウリナの語りからロベルト(拷問した者)の一人語りへと変遷し、彼の善い者であろうとする心情と残虐行為を行うまでの変化を生々しく語る。
このシーン後、ロベルトはパウリナに、先ほどの自白はヘラルドの指示であったことを告白し、ロベルトは無実であることを再度主張する。パウリナは人の名前を故意に間違えて教えるなどの誘導によって、ロベルトがやはり犯人であるということを確信し、パウリナの台詞「どうして私?どうして私が、私が自分を犠牲にしなければならない側なの、どうして?」と続く。その後、「パウリナは銃の狙いをロベルトに定めたまま」、鏡の登場によって観客はそこに映る観客自身を目の当たりにする。
そして最終場(3幕2場)は、前場の数か月後、ヘラルドとパウリナは社交の場であるコンサート会場におり、ロベルトが舞台上に現れる。コンサートではシューベルト「死と乙女」が奏でられ、パウリナとロベルトは一度は目を合わせるが、その後パウリナは正面を向き、ロベルトはパウリナを見続け、終幕となる。

演劇の構造としては、パウリナとヘラルドの家に、部外者であるロベルトが訪問することで、それまでの平穏が崩されるというもの。内輪の中に外部が入るという構造は、ドラマを生み出しやすい構造としてはよく見られる。先ほどハイライトと書いたシーン以外は時と場所を跳躍せずに進行するワンシチュエーションである。
パウリナが録音機に向かって語り始めるシーンについて考えたい。このシーンの見え方・解釈としては、パウリナの語りによってただただこの目の前の演劇が過去パートを演じたとみることもできるし、パウリナが過去と向き合う装置として演劇という方法をとったとみることもできる。パウリナの語りを演劇化し、さらにそこにロベルトが(した・してないは別として)拷問したものとしてそこに存在する。今この瞬間の上演において、「○○というてい」によって再現(演劇化)することで、メタシアターとは違う揺さぶりを生み出すことが実現したように思えた。

3幕1場でいったんこの物語は大きな終わりを迎える。ロベルトがやはり拷問執行人らしい感じで終わり、パウリナが被害者や女性の総体としての次の台詞を発する。「~(中略)たった一例だけでその先はなかろうと、殺してやる、それで失われるものが何かある?~」。ロベルトを私刑にかけることに固執する台詞で終わり、その後のト書きでも「パウリナは銃口をロベルトに向け続ける」とある。本作を通してパウリナ自身が、トラウマや男性や権威から常に見えない銃口を突き付けられてきた恐怖のカウンターを、たった一例にはなるが作りたいという意思の表れで、諦観に近いものも感じる。
さらに3幕2場でもそれは表出する。数か月後、パウリナとロベルトはコンサート会場で目があうが、パウリナは再び正面を向き続ける。真正面を向くパウリナ、彼女を見続けるロベルト、権威側としてあくまでも法的な正しさ(コンサート会場での挨拶)を表象するヘラルドというそれぞれの正義と信念を端的に表現している。

岩波文庫版のあとがき(チリ版へのあとがき)について、ドルフマンの言葉を引用する。

~(中略)葛藤に満ち満ちる歴史的瞬間に我が三人組(パウリナ、ロベルト、ヘラルド)を配置してやれば、時空を超越した意義を彼らに授けてやれる、というのも彼らの行動が実際に形をとる某国にあっては、自分たちの被った損傷を表に出せぬままこれとどう向き合うべきか自問する多くの人々をしり目に、己の犯した罪がだれの目にも触れる形で晒されるのではと恐れつつ生きる別種の人々がいるからだった。(P143)

つまりこの『死と乙女』という作品を創作したことの理由は、独裁下の拷問という犯罪が時代の変遷期の混乱と共に忘れ去られる恐怖とともに、それがいつか晒されることの恐怖を持ち続ける人々がいるということだ。さらに飛躍して考えると、自らの愚行が露呈されることと、露呈されないことへの恐怖、また広い視点で、自らが手を汚した愚行ではないもって生まれた罪(潜在的な差別など)なものがいつか告発されるのではという恐怖を持ち合わせているということすらも包括する。そして男女平等を謳いながらも潜在的なミソジニーを持ち合わせ、特に面倒ごとによるキャリア失敗という新自由主義的な恐怖も内包する。本作の登場人物3人のもつ不安はアンビバレントでありながら、だれもが同時に持つ不安や恐怖心そのものである。3人それぞれに自己を投影できる(実際戯曲中に鏡を観客に向けるという指示もある)ため、登場人物だれか一人に気持ちを加担させてくれない不安定さもまたこの作品の居心地の悪さを故意に生み出している。

※またいろいろ加筆します。

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