「コロナウィルスと法の支配:歴史からの警告」

「コロナウィルスと法の支配:歴史からの警告」 

               イアン・マクドゥーガル(LexisNexis)

いずれの国も、時に、何らかの緊急事態に直面する。緊急事態によって、その国の人々、施設、財政、その他すべての面が試される。そして、極まれには、法の支配への強い姿勢も試される。

法の支配は、社会が安定し繁栄するための重要な基盤であることを思い出して欲しい。法の支配なくして、繁栄はない。社会の最も弱い部分が置き去りにされ抑圧されてしまう。法の支配なくしては、その国の繁栄は衰退し、人権は放棄され、社会秩序はやがて崩壊する。それは、明日太陽が確かに昇るのと同じくらい、法の支配の欠如がもたらす必然的な結果である。

明日昇る太陽と言えば、危機は過ぎ去るということも思い出す必要がある。一時の恐怖は、歴史の中で薄らいでいく。今現在の危機についてもそうだろう。危機が過ぎるとき、法の支配が強固であり続けることは重要である。社会は、法の支配という基盤の上に築きあげられており、危機の後に、我々がなお法の支配に対する強固な取組を続けるならば、我々は、共同体の全構成員のための繁栄を取り戻し、築き上げる強固な基盤を手にすることになる。

歴史は我々に様々な教訓を与えてくれる。そういった教訓に学ぶ用意はできているのだろうか。

第2次世界大戦中、民主主義政府が、戦争を遂行する上で危険とみなした人々の自由を制限する強硬手段を実施した例がある。例えば、米国においては、「日系」人は裁判なしで収容所に送られた。9.11の後には、米国に対して与えているとされる脅威を理由に、裁判なく米国に捕らえられ、今も捕らえられたままの人々がいる。

平時なら、それらは違憲とされるだろう。しかし、危機的状況は平時ではない。第2次世界大戦中、英国では、報道は厳重に検閲され、公表される情報はジョージ・オーウェル風の仰々しい名前を持つ「情報省」のもとで政府によって厳に管理された。食料も配給された。政府には緊急時の権限が付与され、特に閣僚には、尋常でないレベルの裁量権が与えられた。

その時代の訴訟の1つであるLiversidge v Anderson [1942] AC 206(当時の英国最高裁判所である貴族院において下された判決)は、最も経験豊富な裁判官でさえ、時の緊急事態によって、法の支配から簡単に不意打ちを食らうことを示している。当時の状況は、それ以上悪化しようもないぐらいであった。事件が審理された当時、フランスは敗北しており、それはフランスに展開していたイギリス陸軍についても同様であった。ドイツのイギリス侵攻は時間の問題とされ、ドイツのスパイ――「第5列」と呼ばれていた――がもたらすリスクについてのパラノイア的恐怖は、最高潮に達していた。

そのため政府は、ある人物を勾留することが「領土防衛」のために必要であると担当大臣が判断した場合に(それは満足されるべき唯一の条件であった)、当該人物を勾留する「裁量的」な権限を大臣に与える規則を定めた。しかしながら、無実の者の権利はどうなるのか。法の支配の力と法の支配の遵守なくして、誰が無実の者を守るのか。

司法と法の支配との関係の最悪の例として悪名高い判決において、多数意見は、裁判所で争うことのできない広範な裁量権を大臣が持つことを認めたのである。そう、この判決は、誰もが法の支配が生まれ出でたと考えるところによってなされたのである! 危機的状況において、多数意見は、政治家を法の支配に基づく審査に従わせる代わりに、政治家に国民を拘束する絶対的な権原を与えようとしたのである。

しかしながら、同事件の真のそして永遠の教訓は、アトキン卿の反対意見に存在する。我々にとって教訓となるべき発言において、彼が述べたのは「戦争のまっただ中でも、法は沈黙しない。法は変えることができるが、平時にあっても戦時にあっても同じ言葉を語っている。」というものだった。

これらの言葉を法の支配の原則に適用したい(LexisNexisの定義については、https://www.lexisnexisrolfoundation.org を参照のこと)。我々は、緊急事態に対処するためにできる全てのことを行うが、それによって、法の支配を犠牲にしてはならないという点に注意しなければならない。それは専制政治への道であり、権利が失われた場合、回復することは困難である。

結局、そして法の支配にとってありがたいことに、政府であっても法による審査に従うというアトキン卿の見解が、大多数の国において支配的なものとなり、法律の世界のアプローチとなった。

我々は、今、当時とは種類は異なるものの深刻さにおいて違いのない、前例のない時を迎えている。欧州委員会は、自由交通に関するシェンゲン協定締結国間での、全ての不要不急の旅行を禁じることを計画中である。多くの国が、コロナウィルスの蔓延を阻止するために、さまざまな封鎖を実施し、国境を閉鎖している。スペインとイタリアは複数の町や都市を隔離している。米国は、EU諸国と米国の間の旅行を禁じた。

我々は、公衆衛生上の比類のない危機を目の当たりにしている。パンデミックがいつ終了するのか、また、さらなる規制が必要になるのかを知る明確な方法はない。平時なら、市民の自由の侵害とみなされるような、さらなる制限が必要になる可能性がある。事実、このブログは公開の時点で、時期遅れになっているかもしれない!

最近、多くの人が、陪審裁判の延期(放棄ではないと思っている)を提案している。きっと他にも影響が出るだろうと思う。司法制度へのアクセスは遅くなるだろう。多分、公衆衛生に関する緊急事態に関する法律も制定されるだろう。他に何が必要となるか、未だ誰にも分からない。

しかしながら、歴史の教訓を思い出してみよう。最も深刻な危機の最中にあってさえ、法の支配を放棄する必要はない。社会を構築する基盤を取り除くことは、長い目で見て、社会にとって何ももたらさない。手に入れた尋常でない権原は、法の支配ではなく、官僚主義を迂回するための仕組みとされうべきだ!

危機的状況において、法の支配が放棄されることで最も影響を受ける人々こそ、最も弱い人々であることを思い出すべきである。重要な原則に忠実であることは、容易なこととは限らないが、それらは文明社会の基礎であり、危機が私たちの文明を奪うことがあってはならないのだ。

(翻訳:奥邨弘司)

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訳注:この記事は、LexisNexisのジェネラルカウンセルであり、LexsNexis法の支配財団のトップでもある Ian McDougall 氏が 2020年3月18日にLexisNexisのブログに掲載された記事「Coronavirus and the Rule of Law: A Warning From History」を、許可を得て翻訳し掲載したものである。許可して下さったことに心から感謝したい。

彼の記事を読んだとき感じたのは、今回の新型コロナウィルス肺炎に関する一連の問題が始まって以来、自分の中で感じていたモヤモヤしたものをはじめて正面から捉えることができた、という気持ちであった。

正直未だに、今回の一連の事態の推移に戸惑っている。(人混みの中で花見をしたり、屋内の大人数イベントに参加したりすることは控えているが)最近、新型コロナウィルスへの緊張感という点では、自分も世の中の少なくない人々と同じように緩んでしまっているなあと感じつつ、イタリアやスペイン、NY州、それにインドなどでの強力な都市封鎖・外出制限の様子を見ていると、日本だけ対岸の火事ですむはずもないと怖くなり、もっと効果的かつ強力な手を打って欲しいと心から思ったりもする。一方で、強力な措置が中国でとられていたころは、政治体制も違うしと、どこか割り切って捉えていたものの、欧州や米国で類似の措置がとられはじめるのを見、加えて都知事から首都封鎖という言葉が出て、近い将来のあり得べき事態を想定すると、法律家の端くれとして、やはり身構えてしまう。

正直戸惑っている。そんなときこの記事を知った。記事を読んだとき、McDougall 氏自身戸惑いながらも、なお、法の支配の堅守を訴えているように、私には感じられた。彼は、法の支配の堅守は、社会の最も弱い人々を守るためであると主張する。一方で、今回実施されている公衆衛生上の各種の強力な措置は、新型コロナウィルスに最も弱い人々を守るためのものである。ここに至って、ようやく問題の本質を捉えることができたように思った。そしてその結果、私自身にとって、問題はより難しいものになった。もっともっと考えてみたいと思っている。

何分にも拙い訳なので、Twitterのフォロワーの皆さんならば、直接原文をお読み頂いた方が良いと思う。彼の記事をより深く理解しようと、自分の勉強のために訳したのが出発点であるため、至らない点は何卒ご容赦頂きたい。彼の意図するところと逆に訳すことだけは避けたいと努力したつもりではあるが、翻訳上の全ての誤謬は訳者である奥邨の責任である。



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