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[妄想] 丸い地球が平面になる時代へ

そう言えば、VRが普及すると、丸い地球が、有界な平面になると言う。世界観は、大航海時代以前に逆戻りです。でもまあ、古代エジプト文明のアレキサンドリア時代にはでは、地上が球体の表面にあることはわかってたんだけど、欧州文明は、遅れていた。

何にしても、それは、時間の流れの尺度からは、誤さとして眼を瞑っておいて、未来に、古代の世界観へ引き戻されるというのが、なんとも、皮肉な時代の流れです。

ただ、一方、科学的な世界観に関して、球体世界から、平面世界への分岐としては、宇宙論(特に、相対性理論)に採用された局所平面フラグメントの連続的な接続によって宇宙という世界観から、連続性の制約まで取り去った量子論へのエスカレーションも、既にあります。一見、独立した世界でも、不確かながら、たどっていくとどこかでつながるのかもしれませんね。量子論では、方程式上、未来の不確かさと同等に、過去の不確かさも、許容されると思ってます。なので、過去につながりがあったかもしれないということです。

また、VRに普及は、遠い将来、有機物を媒体に化学反応をベースに実現された生命も、電気信号で実現されるデータ処理による実現に、切り替わっていくのかは、定かではないが、昨今のSFなどは、それをも示唆している。現在の科学的な認識では、脳組織は、それを構成する神経細胞(媒体)によって、信号を伝達・処理している。人の意識も、その信号の一部であるという認識になる。使用されるリソースコストを考えなければ、他の媒体での実現も不可能ではない。生命は、個体を形成して、外界の状態を認知する感覚機能とともに、個体間で、信号を伝達し合うコミュニケーション手段を、いくつか有している。このコミュニケーション手段によって、はじめて、他の個体の生死を、認知できるようになる。現在、存在している生命は、多種多様であり、それぞれが環世界を有している。人は、人の環世界に存在している。

有機物(特定の媒体)に閉じ込められた生命が、データ化して、多種多様な媒体に実現される未来があったとして、生命の生死は、不確定なものになってくる。どの環世界も、他の個体のどれからも認知されていない個体の生死は、存在していなかったことと区別はつかない。生死の重要性は、その個体が集団活動を有していて初めて、発生するのだろう。個体自身は、チューリングの停止性問題から逃れることも出来ず、論理的には、死を自ら認知できないことから、現象論的に、存在が無くなるという観測的経験知となる。この所以から、「人(生命)は死んだらどこに行くの?」という質問が、子供などから上がってくる。また、生まれるという現象も同じで、「どこから来るの?」という質問が上がる。あくまでも、現象論的な論述である。

人の環世界における脳のデータ処理は、認知した現象に対して、原因を知識として貯める性があり、原因の分からないままでは、居られないようにできているようだ。宗教(天国や地獄、死者世界)も、その穴埋めになってきたが、個体の生活の多様化で、対応が困難になってきている。潜在的なストレス(疲労)がどんどん溜まることにもなる。

遠い将来のデータ化の行きつく先では、データ消失が死になりそうだが、データ自身は、コピーが容易という性質もある。要は、死ないので、「人(生命)は死んだらどこに行くの?」という質問もなくなるのかもしれない。

現在に戻ると、生命は、データ化されてはいないのだが、生死の他の個体が認知するものであることには変わりはない。「人(生命)は死んだらどこに行くの?」の質問に関して、宗教観を取り除いた応えは、「人(他の個体)の心に宿る」というのが、現象論的な応えとなるのだろう。

だいぶん、話題がそれたが、VRの普及で、球体の世界が、有界平面な世界に変わっていく。これも、世界のデータ化により発生する成り行きでもである。今のVRは、宇宙創成の時代で、小宇宙が、有界平面な世界として、発生し始めている。それぞれの小宇宙も生成消滅を繰り返していくうちに、バラバラな存在でありながら、文脈(グループ)を形成し始め、より大きな宇宙へと成長してくるというのが、近い将来への期待でもある。この過程では、グループが単一である必然性もなく、パラレルワールドも許容する。

色々、現象論的な理解をしてきたので、そろそろ、面白い話へ持っていきたいと思っています。(TBD)

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