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スイスの画家フェルディナンド・ホドラーが生まれた。

ArtDailyは2022年03月14日に、スイスの画家。グスタフ・クリムトと並んで世紀末芸術の巨匠であったフェルディナント・ホドラー(Ferdinand Hodler/1853 - 1918)は1853年03月14日、スイスの首都、大工であった父親ジャン・ホドラー(Jean Hodler/ヨハネス・ホドラー/Johannes Hodler/1829 - 1860)と母親マルグリート・ホドラー(Magrid Hodler/マルガリータ(ノイコム)・シュプバッハ/Margaritha (Neukomm) Schüpbach/1828 - 1867)の元、ベルンで貧しい家庭の6人兄弟の長男として生まれた。

フェルディナント・ホドラーの兄弟は、

ヨハン・アドルフ・ホドラー(Johann Adolf Hodler/1854 - 1871)

マリア・エリス・ホドラー(Maria Elise Hodler/1855 - 1885)

フレデリック・グスタフ・ホドラー(Friedrich Gustav Hodler/1858 - 1861)

テオフィル・アウグスト・ホドラー(Theophil August Hodler1861 - 1879)

エルンスト・シュップバッハ[ハーフ](Ernst Schüpbach [half]/1862 - 1929)

ルドルフ・エミル・シュップバッハ[ハーフ](Rudolf Emil Schüpbach [half]/1863 - 1864)

エマ・シュプバッハ【ハーフ](Emma Schüpbach [half]/1865 - 1938)

フェルディナント・ホドラーの妻は、

オーギュスティーヌ・デュパン(Augustine Dupin/? - ?)

ヘクター・ホドラー(Hector Hodler/1887 - 1920)の母親である。

1889年06月18日に結婚したエミリー・ベルタ(シュトゥッキ)・ホドラー(Emilie Bertha (Stucki) Hodler/1867 - ?)子供についてはわからない。

1898年06月18日にスイスにベルンで結婚したベルテ(ジャック)・ホドラー(Berthe (Jacques) Hodler/1868 - 1957)がいた。

フェルディナント・ホドラーの子供として認知されているのはヘクター・ホドラーと、ポーリーン・ヴァレンタイン(ホドラー)・マニナット(Pauline Valentine (Hodler) Magnenat/1913 - 1999)だけである。

ホドラーが8歳になるまでに父親と弟2人を結核などの病気で相次いで死んでいる。母親は装飾美術を手掛ける職人ゴットリーブ・シューパッハ(Gottlieb Schüpach)と再婚したが、1867年にやはり結核で死去している。

貧困を極めていた幼少時代。ホドラー自身が兄弟と母親の死体を荷車で貧窮院から運んだと回想録で語っている。

このような幼少期の体験が、彼の人生につきまとった。

https://time-az.com/main/detail/63583

母親が再婚した義理の父親から絵画の最初の手ほどきを受けた後、1868年から1872年までトゥーン(Thun)のドイツ人画家フェルディナント・ゾンマー(Ferdinand Sommer)に弟子入りしている。

看板職人をしたり、観光客相手に絵を売って生計をたてていたが、18歳でホドラーは、画家としてのキャリアをスタートさせるため、徒歩でジュネーヴ(Genève)に向かった。1871年からジュネーヴの美術学校(Collège de Genève)に入り、科学の講義を受け、基礎を学んだ。また、美術館でアレクサンドル・カラメ(Alexandre Calame)の絵を模写している。

1873年には画家のバールテルミ・メンの門下生となり、デューラーのプロポーションに関する文章を研究した。また1875年にバーゼル(Basel)に行き、ハンス・ホルベイン(Hans Holbein)の絵を研究し、特に『墓の中の死のキリスト(Dead Christ in the Tomb)』は、ホドラーの死というテーマの数々に影響を与えた。 1878年にはスペインの首都マドリッド(Madrid)に行き、数ヶ月滞在してプラド美術館(Museo del Prado)でティツィアーノ(Titian)、プッサン(Poussin)、ベラスケス(Velázquez)などの巨匠の作品を研究した。バールテルミ・メン(Barthélemy Menn)の影響のもとコローやバルビゾン派の影響を受け、やがてその才能を見出され

その後、スペインでマドリード周辺の風景やスペインの女性を描き、明るい色彩と力強い画風を身に付けた。

1880年から81年にかけて、ホドラーは「自画像(怒れる者/The Angry One)」を描いた。

この作品はジュネーブで展示された際に嘲笑され、ホドラーは友人に「スイス人は私が他の場所で理解されたことを確認するまで、私を理解しないだろう。」と語った。

この作品をパリのサロンに出品し、初めて入選したが、批評家には無視された。

1884年、ホドラーはオーギュスティーヌ・デュパン(Augustine Dupin/1852-1909)と出会い、その後数年間、彼の伴侶、モデルとなった。

1887年には、1908年に世界エスペラント協会(World Esperanto Association)を設立することになる息子ヘクター・ホドラー(Hector Hodler)が誕生している。

ホドラーは1889年、ベルタ・シュトゥッキ(Bertha Stucki)と結婚していたが、1891年に離婚している。

ホドラーは1894年に出会ったベルト・ジャック(Berthe Jacques/1868 - 1957)と結婚した。

彼の1897年の絵画『詩(Poetry)』(Museum für Gestaltung, Zürich/チューリッヒのゲシュタルト美術館)で、彼女を描いている。

1889年に描いた将来の代表作となる「夜(Night)」が1891年02月に、ジュネーブで開催されたボザール展(Beaux-Arts exhibition in Geneva)に出品したところ、絡み合う裸体像がスキャンダルとなり、市長が猥褻と判断して出品を取りやめた。1891年にパリのシャン=ドゥ=マルスのサロン(Champ de Mars salon in Paris)に出品され、ジュネーブ市長が猥褻と判断して出品を取りやめたことが引き金になり、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Puvis de Chavannes)やロダン(Rodin)に支持されて好評を博し、注目を集め、象徴主義の画家として脚光を浴びた。

中央に描かれる男は、若き日のホドラー自身を描いた自画像といわれている。

ホドラーは、人間社会の根幹をなす対称性とリズムを強調した「パラレリズム(parallelism)」と呼ばれるスタイルを確立した

ホドラーはフランス芸術家協会の会員(Member of the Société des Artistes de France)となり、1892年にはゴーギャン(Gauguin)、モロー(Moreau)、ナビ派(Nabis school)などの世紀末画家たちの作品が集う「薔薇十字サロン(Rosicrucian Salon)」にも出品した。

1904年のウィーン分離派展でホドラーの作品はメインルームに展示され、ベルリンの分離派展ではホドラーのためにギャラリーがひとつ割り当てられた。

50歳を過ぎて画家として認められたホドラーは、20歳も若いヴァランティーヌ・ゴデ=ダレル(Valentine Godé-Darel)と情熱的な恋に落ち彼女との間に一女をもうけるが、ヴァランティーヌも癌により40歳で亡くなっている。

晩年のホドラーはヴァランティーヌと自画像しか描かなくなり、65歳で病に伏して、1918年にジュネーブで死去した。

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