イギリスの肖像画家ゴドフリー・クネラー卿が生まれた。

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ArtDailyは2020年08月08日に、初代准男爵ゴドフリー・クネラー卿(Sir Godfrey Kneller, 1st Baronet/Sir Godfrey Kniller/1646 - 1723)が、ツァッカリアス・クネラー(Zacharias Kniller/1642 - 1702)と彼の妻ルシア・ボイテン(Lucia Beuten/結婚後ルシア・クネラー/? - ?)の3番目の子として、1646年08月08日にドイツのリューベック(Lübeck)のシュレスヴィック-ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)で生まれたと報告した。

彼の生まれた時の名前は、ゴドフリー・クネラー(Gottfried Kniller)であった。

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ゴドフリー・クネラーの兄弟は、
長男のヨハン・ツァッカリアス・クネラー(John Zacharias Kneller/1642 - 1702)
次男のN.N. クネラー(N.N. Kneller?/1645 - ?)
4男のアンドレアス・クネラー(Andreas Kneller/1649 - 1724)がいた。

彼の父親は、ザクセン州ハレ(Halle in Saxony)に上陸した所有者の息子として、チューリンゲン州のアイズレーベン(Eisleben in Thuringia)で1611年11月16日に、生まれたという。

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ゴドフリー・クネラーの妻は、スーザン・クネラー(Susanna Kneller/? - 1729)と言われている。
ゴドフリー・クネラー元パートナーはN.N. ボス(N.N. Voss/? - 1716)
ゴドフリー・クネラーには、元パートナーであったN.N. ボスとの間に、娘カトリーヌ・フッケル(Catherine Huckle/? - 1714)がいた。

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リューベックで生まれたゴドフリー・クネラーは、その後、現在ではオランダのライデン(Leiden)で学び、アムステルダム(Amsterdam)でフェルディナント・ボル(Ferdinand Bol/1616 – 1680)やレンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn/1606 - 1669)の弟子となり、1670年代には兄のヨハン・ザカリアス・ネラー(John Zacharias Kneller/1642 – 1702)と共にローマ(Rome)とベニス(Venice)に赴き、歴史画や肖像画を描いた。

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その後ハンブルク(Hamburg)に引っ越した。

彼らは初代モンマス公ジェイムズ・スコット(James Scott, 1st Duke of Monmouth and of Buccleuch/1649 - 1685)の招きで1674年にイングランドに到着した。

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ゴドフリー・クネラー卿は、17世紀から18世紀初期まで、イギリスの主要な肖像画家の1人で、法廷画家で、チャールズ2世(Charles II)からジョージ1世(George I)まで、イギリスの君主の肖像を描いている。

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しかし、ゴドフリー・クネラー卿は、ロンドンに工房を構え、多くの助手を雇い入れ、簡単なスケッチを元に、型どおりのディテールを加えて工業規模でファッショナブルな肖像画を量産していった。

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つまり、肖像画をパターン化し、「ハンプトンコート・ビューティーズ(Hampton Court Beauties)」と呼ばれた宮廷に仕える美女たち、キット・キャット・クラブに属していた主要な政治家や文学者たちの48枚に及ぶ肖像画「キット・キャット・ポートレート(Kit-cat portrait)」を描いた。

また、世界的に有名な錬金術の文献コレクターで、近代科学の父と言われるアイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton/1642 - 1727)の肖像画も描いている。
アイザック・ニュートンのコレクションは現在、アインシュタインの文献とともにイスラエルの図書館に保存されている

ニュートンの絵として登場するものは、ほとんどゴドフリー・クネラー卿の作品である。

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今回公開された絵は、ゴドフリー・クネラー卿の自画像である。

ドイツのリューベック(Lübeck)のシュレスヴィック-ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)の緯度、経度。
53°51'58.5"N 10°40'46.4"E
または、
53.866236, 10.679553

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