ドイツの画家ヨルク・イメンドルフが死去。

画像1

ArtDailyは2021年05月28日に、コンテンポラリー・ドイツ人画家、彫刻家、舞台監督、およびアート教授であったヨルグ・イメンドルフ(Jörg Immendorff/1945 - 2007)が2007年05月28日(2007年05月27日という情報もある)に、ドイツのデュッセルドルフ(Düsseldorf)で享年61歳で死去したと報告した。

画像2

ヨルグ・イメンドルフは2003年08月に、多くの売春婦とデュッセルドルフホテルの豪華スイートで、コカインを楽しんでいるところを逮捕され、彼のスタジオでは、さらに多くのコカインが見つかった。

画像3

彼は検察に協力し、1990年代初頭からコカインを服用したことを認め、ディーラーの名前を提供した。2004年7月の裁判で、彼は2001年2月から2003年8月の間に27の同様の乱交を組織したことを認めた。
彼は保護観察で11か月の刑を宣告され、15万ユーロの罰金を科された。穏やかな判決は、イメンドルフの病気と彼の広範な自白で正当化された。彼は大学での地位を停止されていたが、評決後に復帰した。

画像4

2005年には、救急治療を受け、病院では、呼吸を助けるために気管切開が行われ、車椅子の生活になり、絵が描けなくなった。その代わりに、彼はアシスタントに彼の指示に従ってペイントするように指示した。

画像5

彼の遺灰は、地中海に散布され、彼の意思で全財産推定€1500万から€1800万を残した。彼は、妻オダ・ジャーネ(Oda Jaune)に譲られたが、父親のことを一度も知らなかった元関係した女性の12歳の息子が、遺産相続を要求した。

画像6

ヨルグ・イメンドルフは、1998年にALS(Lou Gehrig's disease/ルー・ゲーリッグ病)と診断され、左手で絵を描くことができなくなって、右手で絵を描き始めた。

https://time-az.com/main/detail/64507

画像8

ヨルグ・イメンドルフは、彼の元学生であったオダ・ジャーネ(Oda Jaune)と結婚し、2001年08月13日に娘アイダ(Ida)が生まれた。

ヨルグ・イメンドルフは、エルベの西岸ニーダーザクセン州リューネブルグ(Lüneburg)の近く、ブレッケデ(Bleckede)で生まれた。

彼には、兄弟としてダリイ・ダノフスキー(Daryi Danovsky)、イオアナ・ダノフスカ(Ioanna Danovska)がいたと言われているが明らかではない。

ただし、イオアナ・ダノフスカ(Ioanna Danovska)という画家はいた。

彼の父親は、彼が11歳の時、家族を捨てた。

彼は、進学用寄宿学校Ernst-Kalkuhl Gymnasiumに通った。

16歳の時、彼はボンのジャズ・セラー(jazz cellar)で最初の展覧会をした。

1963年からは、デュッセルドルフのアートアカデミー(KunstakademieDüsseldorf)学んでいたが、先生であった演劇デザイナーのテオ・オットー(Teo Otto)が、ヨルグ・イメンドルフの絵を利用しようとすることを拒否し、テオ・オットーのクラスから逃げた。

しかし、ヨーセフ・ボイス(Joseph Beuys)によって、学生として受け入れられたが、左翼の政治活動とネオダダイストの行動のため、デュッセルドルフのアートアカデミーを追放された。

彼は公立学校で美術教師として働き、その後フリーアーティストとしてヨーロッパ各地で客員教授を務め、1989年に、フランクフルト・アム・マイン州立学校(Städelschule in Frankfurt am Main)の教授になり、1996年に追い出されたデュッセルドルフのアートアカデミーの教授になった。

かれは、Neue Wildeのメンバーであった。

画像7

今回公開された絵は、ヨルク・イメンドルフが2007年に制作した「Untitled(無題)」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?