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アメリカの写真家アーヴィング・ペンが生まれた。

ArtDailyは2022年06月16日に、ファッション・カメラマンで、肖像および静物の写真で知られているアメリカの写真家アービング・アーロン・ペン(Irving Aaron Penn/1917 - 2009)は、ロシアのユダヤ人家族であったハリー・ツビ・ペン(Harry Zvi Penn/1888 - 1942)とソニアグリーン・バーグ(Sonia Freda Greenberg/ソニア・フレダ・ペン・ヘルファンド/Sonia Freda Penn Helfand/? - 1979)の子として1917年06月16日にニュージャージー州プレーンフィールド(Plainfield, NJ)で生まれたと報告した。

ハリー・ツビ・ペンに関しては、Pittsburgh Post-Gazette - Apr 25 1942に記事がある。

ハリー・ツビ・ペンとソニア・フレダ・ペン・ハルパンドは離婚し、ソニア・フレダ・ペン・ハルパンドはMeyer Helfand(マイヤー・ヘルファンド/? - ?)と再婚している。

アーヴィング・ペンの弟アーサー・ペン(Arthur Penn/1922 - 2010)は、1922年に生まれ、『俺たちに明日はない』などで知られる映画監督、プロデューサーになった。

アービング・アーロン・ペンには、子供が2人いるが、その母親は、世界で最初にスーパーモデルと言われるリサ・フォンサグレイブ(Lisa Fonssagrives/1911 - 1992)であった。

最初の子は、1941年に生まれた娘のミア・フォンサグリーヴス・ソロー(Mia Fonssagrives-Solow/1941 - )で、ファッションとジュエリーのデザイナー兼彫刻家であり、不動産デザイナーでありアートコレクターである富豪のシェルドン・ソロー(Sheldon Solow/1928 - 2020)と結婚している。名前から、最初の夫で、フランス人の写真家フェルナン V.フォンサグレイブの子と言うことだろう。

https://time-az.com/main/detail/60223

彼女の最初の夫は、フランス人の写真家フェルナン V.フォンサグレイブ(Fernand V. Fonssagrives (両親のVigoureuxを使っていた時期もある)/1910 - 2003)である。

息子は、ボード・ゲーム・デザイナーのトム・ペン(Tom Penn)である。

1934年にフィラデルフィアの工芸美術館学校(Industrial Art Museum School)に入学し、1938年まで通い。ロシア生まれの写真家アレクセイ・ブロドヴィッチ(Alexey Brodovitch/Alexey Brodovich/Алексей Бродович/1898 - 1971)に師事し、デザイン研究所で学んだ。ブロドヴィッチは1920年代にパリで活躍したロシア人移民で、雑誌や展覧会、建築、写真などに触れながら、現代美術やデザインの原理を応用することを教えた。ドローイング、ペインティング、グラフィックス、工芸を学んだ。

その後、ハーパース・バザー(Harper's Bazaar)のブロドヴィッチのアシスタントやさまざまなアートディレクターの仕事を経て、1941年、ペンはメキシコに絵を描きに行き、アメリカの南部を旅して、途中で写真を撮った。彼は結局、自分の絵に失望し、翌年の暮れにニューヨークに戻る前に絵を破棄してしまった。

ロシア系アメリカ人のアートディレクター、写真家、彫刻家、美術家であったアレクサンダー・リーバーマン(Alexander Lieberman/Alexander Liberman/Александр Либерман/1912 – 1999)が、ペンの旅先でのコンタクトシートを見て、「何を見たいのかを知っている心と目」を感じ取った。

彼はペンに、自分が思い描く写真を撮り始めるように勧めた。これにより、ペンのキャリアは長く実り多いものとなり、現代の写真を変えるコラボレーションが始まったのである。
アレクサンダー・リーバーマンは、アービング・アーロン・ペンをアソシエイトとして雇い、レイアウトの準備や表紙のアイデアを雑誌のカメラマンに提案させた。第二次世界大戦前から戦後にかけてアート・ディレクターだった『VOGUE(ヴォーグ)』に勤める。

第二次世界大戦後、ペンは静物やポートレートの印象的なスタイルで急速に評価を高め、リーバーマンは彼をポートレートやファッションの仕事で世界各地に派遣した。これらの経験は、ペンがスタジオという管理された環境で撮影することを好むようになったことを裏付けるものであった。

これらの仕事とは別に、ペンは個人的に大きなプロジェクトに取り組みました。それは、スタジオで肉付きの良いヌードを至近距離から撮影し、「イメージの滑らかさを打ち破る」ためにプリントを試すというものであった。これは、それまでの美術史のモデルに対する深い反省から生まれた新しい写真のアプローチであったが、この写真はあまりにも挑発的だと判断され、何十年も公開されなかった。

1950年、ペンは『ヴォーグ』誌のオートクチュール・コレクションを撮影するためにパリに派遣された。
古い劇場のカーテンを背景にした昼間のスタジオで仕事をしていたペンは、1947年に初めて出会ったリサ・フォンサグレイブ(Lisa Fonssagrives/1911 - 1992)という素晴らしいモデルに恵まれた。スウェーデンで生まれ、ダンサーとしての訓練を受けた彼女は、当時最も人気のあったファッションモデルの一人であり、フォームと姿勢に対する洗練された理解を持っていた。ペンは後にこう語っている。
「リサが入ってきたとき、彼女を見て心臓の鼓動が速くなり、これだと疑う余地がなかった。
二人は1950年09月にロンドンで結婚した。

また、リサ・フォンサグレイブは、世界で最初のスパーモデルと言われている。

ペンは、古いプリントの伝統に触発されて、消滅しつつある世界に属するブッチャー、ベーカリー、職人、奇人などの「小商人」を撮影するプロジェクトにも取り組んでいた。

1964年から1971年にかけて、ペンは『ヴォーグ』のために旅をする機会が増え、日本、クレタ島、スペイン、ダホメー、ネパール、カメルーン、ニューギニア、モロッコなどを訪れた。これらの旅でペンは、自然光の中で人物のポートレートを撮るという、真に興味のあることに次第に集中できるようになった。初期の旅では、ガレージや納屋などの既存のスペースを自分のニーズに合わせて利用していたが、彼が興味を持っていた尊敬に満ちた交流を促すためには、中立的な環境が重要な役割を果たすことに気づいた。

最終的には、解体して場所を変えられるテントスタジオを作ることになり、ペンは、「この(テントの)虚無の中に、私たち二人の接触の可能性がある」と感じていた。それは、私にとっては啓示であり、被写体自身にとっても、しばしば感動的な体験であると言えます。

アーヴィング・ペンの写真は、雑誌ヴォーグ(Vogue magazine)や、イッセイ・ミヤケ(Issey Miyake)とクリニーク(Clinique)を含むクライアントのための独立な広告の仕事に含んだ。

彼の仕事は国際的に展示されて、写真撮影をアートとして知らせ続けた。

世界中の誰もが、彼の撮った写真の最低1点は知っている。

今回公開された写真は、アービングペン財団からスミソニアンアメリカ美術館にプレゼントされた(Smithsonian American Art Museum, Gift of The Irving Penn Foundation)アーヴィング・ペン、レオンタイン・プライス、ニューヨーク、1961(Irving Penn, Leontyne Price, New York, 1961)である。

アーヴィング・ペンは、フォトグラファーであると同時に、パイオニアとして、モダン・ファッションの父(father of modern fashion)とも言われている。

ニュージャージー州プレーンフィールド(Plainfield, NJ)の緯度、経度。
40°38'01.4"N 74°24'26.5"W
または、
40.633714, -74.407372

2009-10-07---アメリカの写真家アーヴィング・ペンが死去した。
1956-03-23---写真展「The Family of Man」で長崎原爆被害者の写真を覆い隠した。

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