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ドイツの彫刻家オットー・ピーネが生まれた。

ArtDailyは2022年04月18日に、キネティック、テクノロジーをベースにしたアートが専門のドイツのアーティストであったオットー・ピーネ(Otto Piene/1928 - 2014)が1928年04月18日にドイツのヴェストファーレン州バート・ラースフェ(Bad Laasphe, Westfalen)で、プロテスタントの牧師が何代も続く家庭の出身で、哲学と古風な数学、数の起源、多くの本の著者に興味のあるラインホールト・ニーマイヤ(Reinhold Niemeyer)の子であった母親アンナ「アン」ニーマイヤー(Anna “Anne” Niemeyer/1888 - 1963)と、数学と物理学を学び、哲学の博士号を取得したプロイセン・プロテスタントの父親オットー・ピーネ(Otto Piene/1887 - 1944)の子として生まれたと報告した。

兄弟には、兄の1925年に生まれたラインホルト・ピーネ(Reinhold Piene)がいた。

その後、ヴェストファーレン州リューベック(Lübbecke)に引っ越して、そこで育った。

父親は、リュベッケのアカデミック・ハイスクール(Academic High School in Lübbecke)の創立者であり、特殊な教育タイプの機関で、亡くなるまで教師とディレクターを務めた。

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リューベックの中学校で、絵画やデッサンに興味を持ち、自宅の図書館で見つけたレオ・フォン・コーニッヒ(Leo von KoÅNnig)、ロヴィス・コリント(Lovis Corinth)、ポーラ・ベッカー・モデルソン(Paula Becker Modersohn)などの作品を熱心に見ていた。

1944年オットー・ピーネが16歳のとき、15歳以上のギムナジウムクラスの生徒全員が第2次世界大戦に対空砲手として徴兵された。

ドイツ軍の兵士として、夜のサーチライトや砲撃の光るラインに魅了されたのが、キネティックへの関心の始まりであったと言う。

1944年に第2次世界大戦が壊滅的な展開を見せ、2人の子どもが前線に送られたことで、心が折れてしまった父親は、1944年02月27日に心臓発作で亡くなった。

ミュンヘン(München)とデュッセルドルフ(Düsseldorf)の美術アカデミー(Kunstakademie)で絵画と美術教育を学んだ後、ケルン大学(Universität zu Köln)で哲学(philosophy)を学んだ。

1964年からペンシルバニア大学(University of Pennsylvania)の客員教授を務めた。

彼は、ドイツのデュッセルドルフ(Düsseldorf)、米国のマサチューセッツ州のケンブリッジ(Cambridge, Massachusetts)、マサチューセッツ州のグロトン(Groton, Massachusetts)で生活し、作品を制作した。

彼はMIT(Massachusetts Institute of Technology/マサチューセッツ工科大学)のイェルギー・ケペス(György Kepes)によって設立されたCAVS(Center for Advanced Visual Studies/先端視覚研究センター)に任命された最初のフェローで、1974年に彼はCAVSのディレクターとしてケペスを引き継ぎ、1993年09月01日まで勤めた。

オットー・ピーネは、生涯にわたってCAVSやMITと密接な関係を保ち、マサチューセッツ州グロトン(Groton, Massachusetts)とドイツのデュッセルドルフに長く自宅を構えていた。

オットー・ピーネは、ストロボスコープの先駆者(pioneer of stroboscopy)であるエドガートン("Doc" Edgerton)やMITの宇宙物理学者ウォルター・ルーイン(astrophysicist Walter Lewin)など、多くのアーティストや科学者、エンジニアとコラボレーションを行っている。

今回公開された作品は、2011年10月21日から12月31日まで、MIT List Visual Arts Centerで開催された展覧会「Otto Piene: Lichtballett(オットー・ピーネ:光のバレー)」の会場。

ドイツの彫刻家オットー・ピーネが生まれたバート・ラースフェ(Bad Laasphe)の緯度、経度。
50°55'50.4"N 8°25'12.5"E
または、
50.930664, 8.420128

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