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イタリア系フランス人未来派画家ジーノ・セヴェリーニが生まれ

ArtDailyは2019年04月07日に、イタリアの未来派活動(Futurist movement)の主要なメンバーで、画家であったジーノ・セヴェリーニ(Gino Severini/Severini Genealogy/1883 - 1966)はイタリア中部、トスカーナ州の丘陵地帯にある、高台の小さな町コルトーナ(Cortona)の貧しい家庭で、下級裁判所の法廷書記官であった父親アントニオ・セベリーニ(Antonio SEVERINI)と、仕立て屋であった母親セティミア・アントニーニ(Settimia ANTONINI)の子として、1883年04月07日に生まれたと報告した。

セヴェリーニはコルトーナのスクオーラ・テクニカ(Scuola Tecnica in Cortona/技術学校)で学んでいたが、15歳の時、試験問題を盗んだかどで、同校のみならずイタリア全土の学校から追放処分となった。

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その後しばらくの間は父親のもとで働くが、1899年には母とともにローマへ移っている。

1900年、セヴェリーニは後に「未来派芸術宣言」に共に署名することになる画家で、彫刻家のウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)に出会った。

彼らはジャコモ・バッラ(Giacomo Balla)のスタジオを訪れ、混色ではなく隣り合った色で描き、塗装面を分割して点や縞模様のフィールドにするディビジョニズム(Divisionism)の技法に触れた。

ディビジョニズムの思想は、セヴェリーニの初期の作品や、1910年から1911年にかけての未来派の絵画に大きな影響を与えた。

セヴェリーニは、1906年11月にパリに定住し、モンマルトル(Montmartre)に住んで、絵を描くことに専念していた。

このことが、彼に大きな影響を与えたと、後に「The cities to which I feel most strongly bound are Cortona and Paris: I was born physically in the first, intellectually and spiritually in the second.(私が最も強い絆で結ばれていると感じる都市はコルトーナとパリです。私は最初に肉体的に、次で知性と精神が生まれた。)」と言っている。

そこで彼はその当時の新進気鋭の芸術家たちと出会った。

モンマルトルでは、アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani)と親交を深め、ラウル・デュフィ(Raoul Dufy)、ジョルジュ・ブラック(Georges Braque)、スザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)のスタジオに隣接して、また、ジャン・メッツィンガー(Jean Metzinger)、アルベール・グレイズ(Albert Gleizes)、ジュアン・グリ(Juan Gris)、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)、ルグネ=ポー(Lugné-Poe)とその演劇サークル、詩人のギョーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire)、ポール・フォート(Paul Fort)、マックス・ジャコブ(Max Jacob)、作家のジュール・ロマン(Jules Romains)など、パリの前衛芸術家のほとんどと知り合い、作品も売れなくても生活には困らず、パトロンの厚意にも頼っていた。

彼はフィリッポトンマソマリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti)とウンベルト・ボッチョーニによって未来派運動に参加するよう招待され、1910年02月の未来派画家たちの宣言(the Manifesto of the Futurist Painters)と未来派絵画の技術宣言(Technical Manifesto of Futurist Painting)のバラ(Balla)、ボッチョーニ、カルロ・カラ( Carlo Carrà)、 ルイージ・ルッソロ(Luigi Russolo)と共同署名者になった。

ジーノ・セヴェリーニは1913年08月28日に、パリ14、75番地で、パリジャンの"ジャンヌ "アンドレ・ジョルジェット・フォート("Jeanne" Andrée Georgette FORT/1897 - 1992)と結婚している。

彼女は、ジュール・ジーン・"ポール"・フォート(Jules Jean "Paul" FORT/1872 - 1960)とマリー・ジュリア・タイベール(Marie Julia THEIBERT/1866 - 1956)の子として、パリで1897年06月15日に生まれた。

彼女は1992年01月22日にローマのラッチオ(Roma, Lazio, Italie)で94歳で死去している。

1916年にジーノ・セヴェリーニは、未来派を去り、初期のルネサンス芸術への興味に触発された自然主義的なスタイルでいくつかの作品を描いた。

彼は、第一次世界大戦後の10年間は新古典派で、「復興(return to order)」と関連した。

第一次世界大戦後、ジーノ・セヴェリーニは徐々に未来派スタイルを放棄し、1920年まで合成クリスタル・キュビズム(Crystal Cubist)スタイルで描いている。

1920年以降、彼の多くの時間は、パリとローマで過ごした。

絵画のほか、モザイクやフレスコなどさまざまな技法の作品を残している。

「Father of Modern Mosaic」とも呼ばれることがある。

今回公開された写真は、パリの美術館Orangerie Museumで、イタリアの未来派画家、新古典主義アーティストのジーノ・セヴェリーニによる絵画、『Femme a la Mandoline』(L)と『Les joueurs de Cartes』(R)を鑑賞している人を撮影した。

イタリア中部、トスカーナ州の丘陵地帯にある、高台の小さな町コルトーナ(Cortona, Toscana Italy)の緯度、経度。

43°16'30.2"N 11°59'06.4"E

または、

43.275064, 11.985119

1882-10-19---イタリアの画家で彫刻家のウンベルト・ボッチョーニが生まれた。

1881-06-04---ロシアの画家ナタリア・ゴンチャロヴァが生まれた。

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