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イタリアの画家で、彫刻家のアルベルト・ブッリが生まれた。

ArtDailyは2022年03月12日に、第2次世界大戦後のポスト-ワー・アート(Post-War art)の世界でキーになったネオ・ダダ(Neo-Dada)、ヌーヴォー・リアリズム(Nouveau réalisme)、ポストミニマリズム(postminimalism)、アルテ・ポーベラ(Arte Povera)のような芸術的なムーブメントで注目されたイタリアの画家で彫刻家であったアルベルト・ブッリ(Alberto Burri/1915 - 11995)が イタリアのウンブリア州ウンブリアのチッタ・ディ・カステッロ(Città di Castello, Umbria)で、トスカーナのワイン商人であったピエトロ・ブッリ(Pietro Burri/? - ?)とウンブリアの学校の先生であったカロリナ・ブッリ(Carolina Burri/婚前はトレッギアニ/Torreggiani)の子として、1915年03月12日にイタリアのチッタ・ディ・カステッロ(Citta di Castello, Italy)で生まれたと報告した。

彼は、ウィスコンシン州アシュランド(Ashland, Wisconsin)で生まれたアメリカ人のミンサ・クレイグ・ブリ(Minsa Craig Burri(婚前はクレイグ/Craig/1928 - 2003)と結婚している。

https://time-az.com/main/detail/63553

アルベルト・ブッリは、ペルージャ大学(University of Perugia)のアンニーバレマリオッティ高校(Annibale Mariotti high school)に通い、そこで芸術、美術史、医学を学び、1934年に医学部に入学し、1940年06月12日に博士号を取得して卒業した。

医学の勉強中、アルベルト・ブリは熱帯医学に特化し、アフリカで働くことを決めた。

イタリアが第二次世界大戦へ参戦した2日後の1940年10月12日に兵役に召還され、戦闘医としてリビアに送られた。

彼が所属していた部隊は1943年05月08日に、チュニジアのイギリス軍に捕らえられ、後にアメリカに引き渡され、テキサス州ヘレフォード(Hereford, Texas)にの収容所に収監され、キャンプで入手可能な限られた量の材料を使用して、最初のアート活動を開始した。

アルベルト・ブッリは、伝統的な画材を用いず、粗目の麻袋をキャンバスに貼ったり、透明プラスチックをバーナーで黒く焼き、穴をあけるなどの手法を抽象絵画として徹底して追求した。

自分のスタイルをポリマテリアリスト(polymaterialist)と表現し、ヨーロッパの非公式芸術運動(European informal art movement)の物質主義と関連があり、絵画というものの「物質性」に注目したこの姿勢は、絵画表現の可能性を広げたほか、ルチオ・フォンタナの空間主義(Lucio Fontana's spatialism)とのつながりがあり、アントニ・タピエス(Antoni Tàpies_とともに、ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)など、戦後のヨーロッパと同様にアメリカでも組み立て芸術の復興に影響を与えた。とくに、1960年代に台頭したアルテ・ポーヴェラ(Arte Povera.)のアーティストたちに多大な影響を与えた。

第二次世界大戦後の深刻な不況と両親の不満により、1946年02月27日にイタリアに帰国し、母の従兄弟であるヴァイオリニスト兼作曲家のアンニバレ・ブッキ(Annibale Bucchi)の客としてローマに移り、彼の画家としての活動をアンニバレ・ブッキ後押しすることになった。

ローマでは、戦後、視覚芸術のための新しいプラットフォームを作っていた、数少ないが非常に活発な絵画専門の機関と接触する機会があった。

当初は、ローマのマルグッタ通り(Via Margutta)にある小さなスタジオで制作をしていたが、頻繁に引っ越しをしながら、絶え間なく制作を続けていた。

1947年07月10日、ローマのギャラリー兼書店「ラ・マルゲリータ(La Margherita)」で、詩人のレオナルド・シニスガリ(Leonardo Sinisgalli)とリベロ・デ・リベロ(Libero De Libero)の紹介で、アルベルト・ブッリ初の具象作品の個展が開かれた。

しかし、1948年の冬にパリへの旅行中に、アルベルト・ブッリが訪れた、ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet)やジョアン・ミロ(Joan Miró)といった芸術家の影響を受け、アルベルト・ブッリの作品は、抽象的な形態へと変化していった。

1954年にアルベルト・ブッリのスタジオを訪れたアメリカ人ジャーナリストのミルトン・ゲンデル(Milton Gendel)は、「彼の作品は『血と肉』であり、赤く染まった破れた布であり、それはブッリが戦時中に経験した傷を食い止めることと並行しているようだ。」と報告している

アメリカの美術雑誌「ARTnews」の「Overrated and Underrated」欄では、アルベルト・ブッリの名前がよく取り上げられ、1950年代の雑誌を見ると、アルベルト・ブッリはアメリカの抽象表現主義者たちと同じプラットフォームに立っていた。

アルベルト・ブッリは、そのような戦後の時代において非常に重要であり、アルベルト・ブッリがいなかったら、スペインのアントニ・タピエス(Antoni Tàpies in Spain)は存在しなかったと言う人もいる。

今回公開された作品は、アルベルト・ブッリによる1981年の「マルチプレックス8(Multiplex 8)」である。

Courtesy Fondazione Palazzo Albizzini, Collezione Burri, Città di Castello, Italy, and Luxembourg & Dayan

以前、IBMのスポンサーで製作したコンピュータ年表の表紙をコンピュータと相反するアルベルト・ブッリの作品をイメージして作ったが、拒否された。

それ以来、アメリカ人がアルベルト・ブッリの作品を解説すると、信じなくなった。

イタリアのウンブリア州ウンブリアのチッタ・ディ・カステッロ(Città di Castello, Umbria)の緯度、経度。

43°27'33.3"N 12°14'28.4"E

または、

43.459247, 12.241208

1933-07-13---イタリアのアーティスト、ピエロ・マンゾーニが生まれた。

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