フランスの画家ピエール・ボナールが生まれた。

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ArtDailyは2021年10月03日に、フランスの画家、版画家、ポスト・インプレクシストのアヴァンギャルド画家で、ナビ(Les Nabis/預言者)派の創設メンバーであったピエール・ボナール(Pierre Bonnard/1867 - 1947)が、1867年10月03日にオート・ド・セーヌ地方のフォントネー・オ・ローゼ(Fontenay-aux-Roses, Hauts-de-Seine, France)で、陸軍省の著名な役人ウジェーヌ・ボナール(Eugène Bonnard/1837 - 1895)とエリザベート・メルツドーフ(Élisabeth Mertzdorff/1840)の息子として生まれたと報告した。

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兄弟は、兄のシャルル・ボナール(Charles Bonnard/1864 - 1941)と、妹のアンドレ・ボナール(Andrée Bonnard/? - ?)がいた。

ピエール・ボナールの妻はマルト・ド・メリニー(Marthe de Méligny//本名はマリア・ブルサン/Maria Boursin1869 - 1942)がいる。

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彼がおそらく最もよく知られている親密な国内のシーンには、彼の妻マルト・ド・メリニーが含まれることがよくあった。

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1893年に出会った妻のマルト・ド・メリニーは、数十年にわたって常に被写体として登場していた。ボナールが彼女の本名がマリア・ブルサンであることを知ったのは、32年後の1925年に結婚してからのことであった。

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彼女は家出をして、長年にわたって年齢や身分を偽っていたと言われている。それにもかかわらず、彼女はボナールの作品の時には執拗な題材となり、ボナールは385回も彼女を描いた。彼はまた、彼女の親密な写真を撮り、それを後に絵画に反映させた。

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父親の強い希望により、ピエール・ボナールは1885年から1888年までソルボンヌ(Sorbonne)大学の法学部に入学し、古典で頭角を現し、バカロレア(Baccalaureate)を取得して卒業した彼は、一時的に官公庁で法廷弁護士として活動した。同時に美術学校にも通っていたが、ローマのフランス・アカデミーに留学できるローマ賞を受賞できなかったため、1889年にアカデミー・ジュリアン(Académie Julian)に編入し、モーリス・ドニ(Maurice Denis/1870 - 1943)、ポール・セルジエ(Paul Sérusier/1864 - 1927)、ケルグザビエ・ルーセル(Ker-Xavier Rousse/1867 - 1944)、ポール・ランソン(Paul Ranson/1864 - 1909)、フェリックス・ヴァロットン(Félix Vallotton/1865 - 1925)、エドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard/1868 - 1940)らと出会っている。

また、1889年ENSBA(École nationale supérieure des Beaux-Arts/エコール・デ・ボザール)に入り、1890年、エコール・デ・ボザールで開催された日本美術展を見て感銘を受け、以後の作品には日本絵画の影響が見られる。

ボナールはまだ20代の頃、象徴的で精神的な作品を作ることを目的とした若い芸術家のグループである「レ・ナビス(Les Nabis)」に参加し、グループの中でも最も日本美術の影響を強く受け、「ナビ・ジャポナール(bonnard nabis japonard/日本かぶれのナビ、日本的なナビ)」「highly Nipponized Nabi(高度に日本化したナビ)」と呼ばれた。

このジャポニズムの影響は、印象派やポスト印象派の作品にも見られた。

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芸術家になることを決意した彼は、1890年にモンマルトルのスタジオをドニやヴュイヤールと共有した。その後、彼らに演劇プロデューサーのオーレリアン・ルグネ=ポー(Aurélian Lugné-Poe/1869 -1940)が加わり、ボナールはパリのテアトル・ドゥ・ローヴル(Théâtre de l'Oeuvre in Paris)の作品を共同で制作するようになる。

1891年、ボナールはアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)と出会い、インド芸術家協会の年鑑展(the annual exhibition of the Société des Artistes Indépendants)に作品を出品するようになる。この年、ボナールは、友人のヴュイヤール(Vuillard)とともに表紙をデザインした「白痴の歌(La Revue Blanche)」との付き合いを開始した。

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ボナールのリトグラフは1895年に著名な画商アンブロワーズ・ボラール(Ambroise Vollard)から出版され、同年にはルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)のためにステンドグラスをデザインしている。
1896年、デュラン・リュエル画廊(Galerie Durand-Ruel)で初の個展を開催。
1900年には、詩人ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine)の象徴主義詩集『Parallèlement』の挿絵を担当した。
この頃、パリとノルマンディーの間の田園地帯で、印象派やポール・ゴーギャンのスタイル(Paul Gauguin)で風景画を描いていた。

1907年、ボナールはヨーロッパと北アフリカを広範囲に旅行したが、大きな影響を与えなかった。

また、1910年にはパリを離れ、南仏に向かて、戦争をテーマにしたスケッチをいくつか残したほかは、戦争が彼に影響を与えた痕跡はない。


ボナードは、自画像、風景画、街角の風景、花や果物を描いた静物画なども多く描いている。それらの絵画を参考にして、思い出に基づいて作業することを好み、絵画は夢のような質を特徴とすることが多い。

ボナールの習慣は、小さなアトリエの壁に貼り付けた多数のキャンバスで同時に制作することであった。ボナールは近代美術史上最も小さなスタジオを持っていた。この方法では、絵画の形をより自由に決めることができた。私のキャンバスがフレームに張られていると気になる。私は自分がどのような寸法を選択するかを前もって知ることはないと言っている。

まだまだ書きたいことは多いが、1冊の本になってしまうので、ここらでやめる。

今回公開された作品は1896年にピエール・ボナールが描いた「ダンス(Dancers)」
段ボールに油彩。28×36cm。
Musée d'Orsay © 2015 Artists Rights Society (ARS), New York / ADAGP, Paris.

オート・ド・セーヌ地方のフォントネー・オ・ローゼ(Fontenay-aux-Roses, Hauts-de-Seine, France)の緯度、経度。
48°47'23.2"N 2°17'13.9"E
または
48.789775, 2.287181

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