フランスの画家、イラストレーターのジャック・ジョセフ・ティッソが生まれた。

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ArtDailyは2020年10月15日に、フランス人の画家とイラストレーターだったジェームズ・ジャック・ジョセフ・ティッソ(James Jacques Joseph Tissot/ジェームズ・ティッソ/James Tissot/1836 - 1902)が1836年10月15日にフランスのナント(Nantes)の港街で、カーテン商人として成功した裕福で、敬虔なローマ・カトリック教徒であったマルセル・テオドール・ティソ(Marcel Théodore Tissot/? - ?)が父親で、夫を家業で手伝い、帽子をデザインしていたマリー・デュランド(Marie Durand/? - ?)を母親として、生まれたと報告した。

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ジャック・ジョセフ・ティッソは、少年時代から、艤装品や船上の情景を正確に描く能力があり、幼いティソはイエズス会が運営する全寮制の学校に送り込まれた。父親は、息子が芸術家になることに乗り気ではなかったようだが、息子が芸術家を目指すことは必然であると受け止めていたようだ。

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1856年、ティソは画家としての訓練を受けるためにパリに渡った。エコール・デ・ボザール(Ecole des Beaux Arts)で、19世紀の芸術界で最も有名で異色の人物の一人である若きジェイムズ・マクニール・ウィスラー(James McNiell Whistler/1834 - 1903)と出会った。また、この頃、ティソは印象派の画家ドガ(Degas /1834 - 1917)と出会い、友人となった。
アルマ・タデマ(Alma-Tadema )やエドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)と同様に、ティソはこの時期、自分に注目してもらうために名前を変えている。

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ティソの場合は、クリスチャンネームを英語化してジェームズとし、ジェームズ・ティッソ(James Tissot)にした。ティソは、父親の鋭い商才を完全に受け継いでおり、アルマ・タデマやミレイ(Millais)のように、画家でありながら企業家でもあった。1860年代、ティソは旅行好きになり、イタリアや1862年にはロンドンを訪れている。1864年、ティソは初めてロイヤル・アカデミー(Royal Academy)に油彩画を出品し、ロンドンが裕福なパトロンの供給源となる可能性に気づいたことを示唆している。この頃から、ティソは現代の風景画に力を入れるようになった。1869年には、『ヴァニティ・フェア誌(Vanity Fair magazine)』のために風刺画を制作した。

ティソは、エレガントで洗練されたフレデリック・レイトンのレセプションの夜(Frederic Leighton at an evening reception)でを見事なカリカチュアで表現した。

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しかし、彼は1871年にロンドンに移住する前に、パリ社会の画家として、すでに成功を収めていた。

日常生活のさまざまな場面に登場するファッショナブルな服装をした女性のジャンルの画家として有名になった。

また彼は、聖書の場面や聖書の登場人物を描いていた。

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彼はゲーテのファウストから、多くの描出場面として、5つの絵画を示し、1859年にパリサロンで初めて展示された。

これらの作品は、彼の仕事の上で、1859年にアントワープにおいてティッソが会ったベルギーの画家アンリ・リーズ(Henri Leys/ジャン・アウフスト・ヘンドリック・リーズ/Jan August Hendrik Leys)の影響を示す。

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ミュリエル・バイオレット・メアリー・ニュートン(Muriel Violet Mary Newton/1871 - ?)という子供がいたアイザック・ニュートン(Certain Isaac Newton/? - ?)と離婚し、ジェームズ・ティッソのパートナーになったインド生まれのアイルランド人であったキャスリーン・アイリーン・アシュバーナム・ニュートン (Kathleen Irene Ashburnham Newton/1854 - 1882)と愛し合い、2人のあいだにはセシル・ジョージ・ニュートン(Cecil George Newton/1876 - ?)という子供がいた。

キャスリーン・ニュートンは非常に魅力的な若い女性で、この時期のティソの絵にも多く登場している。1870年代後半になると、19世紀の大病である結核を発症し、彼女の健康状態は悪化していった。しかし、ティソは彼女を愛し続けた。

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しかし、ローマ・カトリック教徒である二人は、結婚を考えることができなかったのかもしれない。1882年、絶望的な病に冒されていたキャサリンは自殺したため、聖なる場所に埋葬することができなかった。ティソは、1週間後にセント・ジョンズ・ウッドの家を出て、そのまま帰らぬ人となった。この家は後にアルマ・タデマが購入した。

今回公開された絵は、ArtDailyが2017年10月15日に公開した、1868年のロワイヤル通りのサークル(Le Balcon du Cercle de la rue Royale)である。

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ArtDailyが2018年10月15日に公開した絵画は、ジェームズ・ティッソにより、1876年頃に描かれたポーツマス(Portsmouth)に停泊していたHSMカルカッタ(HSM Calcutta)のギャラリーの風景である。
キャンバスに油彩で、UK, London, Tate © Tate, London 2015.

ジェームズ・ティッソは1902年08月08日に、修道院で聖書の挿絵に取り組んいたフランス シュヌセ=ビュイヨン(Château de Buillon)で死去した。

フランスのナント(Nantes)の緯度、経度。
47°13'06.1"N 1°33'13.0"W
または、
47.218372, -1.553622

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